戦艦大和の要目と歴史|就役から最後・沈没まで<動画あり>

戦艦大和(せんかんやまと)の要目と歴史についてまとめました。日本海軍が当時の建艦技術を結集して建造した世界最大の46センチ主砲を掲載した大和型戦艦で正式名は軍艦大和。◇要目◇歴史◇最後と沈没場所などを YouTube 動画とともに、わかりやすく解説していきます。

 

戦艦大和の概要

戦艦大和 戦艦大和(せんかんやまと)は、日本海軍が当時の建艦技術を結集して建造した史上最大の戦艦。正式名称は軍艦大和。命名の由来は大和朝廷発祥の地とされる「大和国」(やまとのくに=現在の奈良県)。戦艦大和に寄せられた日本海軍の当時の思いがしのばれます。

現在は日本の軍艦の中では抜群の知名度を誇る大和ですが、建造時は「世界最大の主砲を搭載した戦艦」という軍機密が米英などの敵国に知られないように、戦艦大和の存在や要目は、姉妹艦の武蔵(むさし)とともに国民にも極秘にされていました。大和の建造当時の写真や映像が少ないのはこのためです。

戦艦として世界最大の排水量・主砲口径を誇る戦艦大和は、姉妹艦の武蔵とともに大和型戦艦(やまとがたせんかん)とも呼ばれ、大和は「大和型戦艦一番艦」、武蔵は「大和型戦艦二番艦」などとも呼ばれています。また、戦艦大和は「A-140」と番号で呼ばれることがありますが、大和は日本海軍が計画した140番目の戦艦という意味です。

戦艦大和の最新ニュース

2016年6月22日、鹿児島沖(坊ノ岬沖)に沈んだ戦艦大和の潜水調査をしてきた広島県呉市によって、戦艦「大和」船首の菊花紋章、船首下部の球状船首、船尾のスクリュー写真と映像が公開されました。映像の一部は、2016年7月23日(土)から 大和ミュージアム(広島県呉市)で上映されています。

要目(構造)

第二次世界大戦当時、アメリカの主力艦の主砲は40センチ砲でした。大和はそれを上回る46センチ砲を採用。しかも46センチ砲を3基9門搭載し、排水量も史上最大の6万4,000トンと、まさに史上最大の巨大戦艦でした。
●基準排水量…6万4,000トン●全長…263メートル●全幅…38.9メートル●速力…27ノット●航続力…16ノット/時7,200里(時速29キロで約1万3,370キロメートル)●主要兵装…46センチ砲9門・15.5センチ砲12門・12.7センチ高角砲12門・25ミリ機銃24挺・13ミリ機銃4挺・水偵7機●射出機2基●乗員…(竣工時)2,500名(最終時)3,332名●初代艦長…高橋儀八大佐●最終時艦長…有賀幸作大佐●竣工…昭和16年(1941年)12月16日●沈没日…昭和20年(1945年)4月7日●沈没場所…坊ノ岬沖(ぼうのみさきおき)=九州(鹿児島県)南方海域

参戦の歴史

大和は太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の昭和16年(1941年)12月16日に就役。翌年、昭和17年(1942年)に連合艦隊旗艦となり、5月から6月のミッドウェー作戦に初出陣しましたが、何ら戦闘を行なえず帰還。同年8月にトラック島に進出するものの出撃の出番はなく、ただ長く無為に停泊するだけの大和は「大和ホテル」と揶揄(やゆ)されました。

その後、昭和19年(1944年)6月のマリアナ沖海戦でも砲撃戦はなく、同年10月、レイテ沖海戦のさなかに、サマール沖で偶然出くわしたアメリカ護衛空母に砲撃したのが、46センチ砲唯一の実射攻撃でした。太平洋戦争が始まると戦艦を使った戦術から航空機を使った戦術が主力になっていき、日本海軍が夢見た戦艦大和による敵戦艦との一大決戦の機会はけっきょく一度も訪れませんでした。

戦艦大和の歴史 YouTube 動画

戦艦大和の最後と沈没場所

昭和20年(1945年)4月6日、沖縄上陸のアメリカ軍を迎え撃つため、戦艦大和は天一号作戦の一環として海上特攻隊の命を受け出撃。翌日(4月7日)、米軍空母から次々と飛び立つ艦船機の大軍から猛攻撃を受け、爆弾6発・魚雷10本が命中。大爆発を起こして、最後は、鹿児島・坊ノ岬沖(ぼうのみさきおき)で撃沈されました。坊ノ岬沖海戦で戦死した戦艦大和の乗組員は2,740名。生存者は269名または276名との記録が残されています。

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