戦艦武蔵の要目と性能|就役・最後・沈没までの歴史<動画あり>

戦艦武蔵(せんかんむさし)の性能と歴史についてまとめました。◇要目◇就役◇最後◇沈没状況◇YouTube動画――など。戦艦武蔵は日本海軍が建造した最後の戦艦で、世界史上最大規模を誇る大和型戦艦の二番艦。主砲口径46センチ・全長263メートル。マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦に参加。1944年(昭和19年)10月24日沈没。2015年(平成27年)3月に海底の武蔵の写真が公開され話題を呼びました。

 

戦艦武蔵の概要

戦艦武蔵 戦艦武蔵(むさし)は九州・長崎の三菱重工長崎造船所で建造されました。日本海軍最後の戦艦となった武蔵の建造は昭和13年(1938年)に始まります。当時、日本海軍から三菱重工業に出された見積書によると、武蔵の建造予算は6,253万円。現在の価値で800億円ほどになると言われていますが、主砲などの搭載兵器を含めると3,000億円近くになると推定されています。

当時、物量では仮想敵国アメリカには勝てない日本は、主砲の射程距離など性能で勝る戦艦で対抗しようと考え、世界のどこにもない口径46センチの主砲を装備した戦艦の製造を計画。第1号艦の「大和」は呉の海軍工廠(かいぐんこうしょう)で、第2号艦の「武蔵」は長崎の三菱重工業で、極秘に建造が進められました。大和や武蔵の建造当時の写真や映像が少ないのはこのためです。

46センチ主砲を一斉射撃した「武蔵」の写真が2015年に発見され、話題になりました。最大射程距離42キロ。水平線のかなたの敵艦を攻撃できる性能を備えた武蔵の雄姿から、日本の技術の粋(すい)が見てとれます。

しかし、武蔵が完成した昭和17年(1942年)には、戦艦から航空機に戦場の主役は替わっていき、武蔵が活躍する場が訪れることはありませんでした。

海底の戦艦武蔵の新映像・ネット生中継

2015年3月2日、マイクロソフト社の共同創業者であるポール・アレン氏が、フィリピン沖のシブヤン海の海底に沈む戦艦武蔵を発見。探査機による映像のインターネット生中継を行ないました。この映像は、現在、YouTube で公開されています(上記動画)

要目(構造)

大和型戦艦のひとつである武蔵は戦艦大和と同等の性能と整備を兼ね備えています。建造場所は三菱長崎造船所。大和ともに世界最大の46センチ主砲を搭載。第二次世界大戦当時、アメリカの主力艦の主砲は40センチ砲でした。大和と同様、世界最大規模を誇る戦艦です。
●基準排水量…6万4,000トン●全長…263メートル●全幅…38.9メートル●速力…27ノット●航続力…16ノット/時7,200里●主要兵装…46センチ砲3連装3基9門・15.5センチ砲3連装4基12門・12.7センチ連装高角砲6基12門・25ミリ3連装機銃12基36門・13ミリ連装機銃2基4門●搭載機…水上偵察機6機●乗員…約3,300名●初代艦長…有馬馨大佐●最終時艦長…猪口敏平少将●竣工…昭和17年(1942年)8月5日●沈没日…昭和19年(1944年)10月24日●沈没場所…フィリピン沖シブヤン海

参戦の歴史

武蔵は太平洋戦争(大東亜戦争)開戦後の昭和17年(1942年)8月5日に就役。翌年、昭和18年(1943年)2月に大和に替わって連合艦隊旗艦となりましたが、活躍の場はなく、ただ無為に停泊するだけの武蔵は「武蔵屋旅館」と陰口を叩かれました。

昭和19年(1944年)6月に戦艦大和とともにマリアナ沖海戦に初出陣しましたが、大敗を喫し帰還。戦艦を使った戦いから航空機を使った戦術が主力になっていく中、日本海軍がもくろんでいた敵戦艦との決戦の場は、以降、一度も訪れることはありませんでした。

戦艦武蔵の最期 YouTube 動画

戦艦武蔵の最後と沈没場所

昭和19年(1944年)10月24日、武蔵は最後の戦いとなったレイテ沖海戦に参戦。出撃直前に塗装を明るい銀鼠色(ぎんねずいろ)に塗り替えたこともあり、シブヤン海を進んでいた武蔵は米軍の探索機にあえなく見つかってしまい、米艦載機が武蔵に殺到。5時間にわたる猛攻にさらされフィリピン中部・シブヤン海で撃沈されました。

戦艦武蔵の生存者

武蔵の沈没による戦死者は乗組員2,399人のうち1,023人。生存者は1,376名でしたが、生存者は帰国することなく、そのまま他の戦隊に編入され、ほとんどが敵地で戦死。日本へ帰還できたのは約450人でした。

戦艦大和の要目と歴史|就役から最後・沈没まで

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