2019年11月10日・日曜日。越谷市観光協会が主催する街歩きツアー「観光ぷらっとこしがや」に参加。東武伊勢崎線の越谷駅東口を起点に、宿場町の街並みが残る日光街道越ヶ谷宿と大沢宿を歩き、最終地点の北越谷駅までの歴史ある蔵が残る建物をはじめ寺社や史跡を巡ってきました。ツアーの様子を越ヶ谷宿と大沢宿の二記事に分けてお伝えします。まずは越ヶ谷宿から――
観光ぶらっとこしがや|2019年11月10日
今回、私が参加したのは「観光ぶらっとこしがや~日光街道を歩く」。参加費は300円(保険代など)。巡った場所は28箇所。越谷市観光協会のガイドさんとともに歩いた約4キロ・2時間半の街歩きの様子を写真を交えてお伝えします。集合・出発|越谷駅東口
集合場所は越谷駅東口・ガーヤちゃんの蔵屋敷前。集合時間は午前9時30分。受付場所で参加費300円を払って、班名の書かれた名札と資料をいただきました。参加人数は40人。3班に分かれ、各班ごとにガイドさんが二人ずつ付きました。私は2班。ガイドさんは越谷市観光協会のボランティアガイド。班ごとにガイドさんの挨拶が行なわれ、9時35分、スタート。
六地蔵六面石幢|修験道寺院跡
越谷駅東口ロータリーから市役所中央通りを進んで最初の信号を右折。最初の目的地である栃木銀行越谷支店の駐車場に到着(9時45分)。江戸時代、このあたりは東正院(とうしょういん)という修験道の寺院があった場所で、駐車場のはす向かいの敷地に石仏が並んでいます。その中のひとつが六地蔵六面石幢(ろくじぞうろくめんせきどう)。子供を抱えたお地蔵さまなど六尊の地蔵菩薩像が六面に浮き彫りされています。江戸後期・文化元年(1804年)造立。六角柱(ろっかくちゅう)の六地蔵六面石幢は、なかなか見ることができないので、貴重なお地蔵さまです。
四ケ村用水緑道
続いて向かったのが、四ケ村用水緑道(しかむらようすいりょくどう)。場所は足立越谷線(日光街道)瓦曽根ロータリー付近(照蓮院の裏手沿い)。上の写真の右手は照蓮院(しょうれんいん)です。元荒川の瓦曽根溜井(かわらぞねためい)から取水して、越谷の蒲生(がもう)登戸(のぼりと)瓦曽根(かわらぞね)西方(にしかた)の四つの村の田んぼへ水を送っていた四ケ村用水の跡地が整備されて遊歩道になっています。遊歩道沿いのイチョウ並木の黄葉が色づきはじめていました。
窮民救済の碑
9時55分。四ケ村用水緑道から照蓮院の駐車場(照蓮院さくら幼稚園前)に入りました。一角に、金網で囲われて、石碑や力石などがまとめられています。その中に、越谷市の有形文化財に指定されている窮民救済の碑があります。江戸後期・天保9年(1838)建立。天保の飢饉(てんぽうのききん)と呼ばれる天保4年(1833)から天保7年(1836)にかけて全国を襲った大飢饉で苦しむこの地(瓦曽根村=かわらぞねむら)の人々のために、貯金全額を下ろして窮民に与え、飢餓から救った名主の中村彦左衛(なかむらひこざえもん)の功徳を讃えて建てられた記念碑です。
照蓮院|千徳丸供養塔
10時。照蓮院(しょうれんいん)着。住所は越谷市瓦曽根1-5-43。建立年代は不詳。真言宗豊山派のお寺です。本尊は大日如来。本堂には、越谷市の有形文化財(彫刻)に指定されている木像地蔵菩薩立像が安置されています。江戸時代中期に造られた寄木造りの美しいお姿をしています。境内では、名工とうたわれた草加宿の石工・青木宗義(あおきそうぎ)が、江戸後期・天保5年(1934年)に造った弘法大師像付き一千年御遠忌供養塔(こうぼうだいしぞうつき いっせんねんごおんき くようとう)も見ることができます。
照蓮院の墓地の一画にあるのが、越谷市の史跡(指定記念物)に指定されている千徳丸供養塔(ちとくまるくようとう)。上の写真の右から三番目のいちばん小さい石塔です。安土桃山時代の天正10年(1582年)、武田家滅亡の折、この地(瓦曽根村)に落ち延びて、病気で早世した武田勝頼の遺児・千徳丸を供養するため江戸前期・寛永14年(1637年)に建てられました。
瓦曽根ロータリー
照蓮院を出てすぐのところに瓦曽根ロータリーが見えます。江戸時代に造られた日光道中(現・旧日光街道)と昭和16年に造られた日光街道(足立越谷線)との分岐点になります。右に進むと昭和の日光街道、左に進むと江戸時代の日光街道です。瓦曽根ロータリーを左に進み、江戸時代の日光街道(旧日光街道)から越ヶ谷宿に入り、、大沢宿(北越谷駅方面)を目指して歩きます。上の写真は旧日光街道・瓦曽根一丁目付近の街並みです。
不動尊道しるべ
瓦曽根ロータリーから旧日光街道を進んで、二つ目のT字路を右に曲がった道の脇に、不動明王像が載った道しるべが置かれています。江戸中期・寛保元年(1741年)造立。正面に大きく「是より大さがミ道」(これよりおおさがみみち)と彫られています。この道しるべは、かつては日光街道と、大相模不動尊(大聖寺)につながる道(大相模道)の分岐点(追分=おいわけ)に置かれていましたが(上の写真の○印の地点)、道路の標識を建てるために現在の位置に移動されました。
人形店
10時20分。不動尊道しるべから旧日光街道を直進。越ヶ谷宿には三軒の人形店があります。マルヤ人形店・植木屋人形店・会春(あいはる)人形店。江戸時代、越谷には人形職人がたくさんいて、越ヶ谷宿には人形店が30軒以上ありましたが、今は三軒だけになっています(越谷市にはほかにも人形店はあります)水田家
日光街道と市役所前中央通りが交わる交差点を過ぎると、道沿いには、宿場町の面影を残す古い建物や商家が見え始めます。上のの写真は木造二階建ての水田家(みずたけ)。昭和初期築。漆喰(しっくい)の材料の布糊(ふのり)を扱った商いをしていましたが、その後、文具店を営み、現在は民家になっています。行徳屋
行徳屋(ぎょうとくや)。二階の網代型(あじろがた)をした緑色の銅板戸袋が特徴的な木造建築です。田中米穀店
田中米穀店(たなかべいこくてん)。築100年近くになる木造二階建て。昔は臼屋(うすや)という屋号で米屋を営んでいました。二階部分に、菱形(ひしがた)をした銅板の戸袋が見えます。横田診療所
田中米穀店の100メートルほど先に見えるピンク色をした西洋風の木造二階建ての建物は横田診療所(よこたしんりょうじょ)。昭和10年(1935)築。今でも現役の町医者です。昭和35年(1960)までは、この建物は越ヶ谷郵便局でした。なお昭和24年(1949)に、国内初の女性郵便局長として会田俊(あいだとし)さんが越ヶ谷郵便局の局長に就任。新聞などでも話題になりました。油長内蔵
油長内蔵(あぶらちょううちくら)。江戸時代末期に建てられた蔵を曳家(ひきや=建物を解体しないでそのまま別の場所に移動させ)・改修してコミュニティ施設として再生。毎週、金・土・日は「まち蔵cafe」としてカフェも営業しています(10時~5時)。住所は埼玉県越谷市越ヶ谷3-1-5 。越谷駅東口から徒歩5分です。越谷市郷土研究会|八百喜参の蔵
油長内蔵から50メートルほど離れたところにあるモミジの大木が目印の蔵は八百喜参の蔵(やおきさんのくら)。以前は「八百喜」(やおき)という屋号の魚屋でした。三棟ある蔵のうち三番目の蔵と敷地をイベントなどの会場として提供しています。八百喜参の蔵の一部に、越谷市郷土研究会の事務所があります。私たちが到着したら越谷市郷土研究会の会長・渡邊氏が出迎えてくださいました。有瀧家の黒塀
八百喜参の蔵を出て右手にあるのは有瀧家の黒塀(ありたきけのくろべい)。黒塀越しにタブノキが見えます(上記写真中央の木)。このタブノキの樹齢は400年。越谷市の天然記念物に指定されていましたが、枝がほとんど切られてしまったので、越谷市天然記念物からははずされました。中町浅間神社
有瀧家の黒塀を右に見て50メートルほど歩くと通りにぶつかり、右前方に中町浅間神社(なかまちせんげんじんじゃ)が見えます。道路を渡って中町浅間神社へ。越谷市中町7-2。建立年代は不詳ですが、室町時代には鎮座していたと伝えられています。境内にあるケヤキは越谷市でいちばん古く推定樹齢600年。樹高23メートル。越谷市の文化財に指定されています。社殿にある室町中期・応永32年(1425)の銘がある富士山と大日如来を型取った円形銅板の懸仏(かけぼとけが)は、越谷市の有形文化財(工芸品)に指定されています。ただし懸仏は現在は越ヶ谷久伊豆神社で保管されています。ガイドさんが懸仏の写真を見せてくれました。
木下半助商店
中町浅間神社を詣でて信号を左折。旧日光街道越ヶ谷宿に入ると、木造二階建てや看板建築の商家が並び、江戸時代の雰囲気が垣間見られます。まずは越ヶ谷宿の中ほどに位置する木下半助商店(きのしたはんすけしょうてん)に立ち寄りました。昔ながらの対面式の店構えが残っている現役の金物屋さんです。木下家は、江戸時代から越ヶ谷宿で商いを始め、明治時代に金物屋になりました。明治32年(1899)の大火後、大正時代にかけて建築された、表通りに面する店舗のほか、土蔵・石蔵・主屋・稲荷社が現存。国の有形文化財にも登録されています。
小泉家
木下半助商店の向かいにあるのが小泉家(こいずみけ)。先祖が漆を扱っていたことから塗師市(ぬしいち)の屋号をもつ江戸時代から続く呉服商でした。店舗と蔵が横並びになっている形式は越ヶ谷宿で現存する唯一の建物。蔵は明治8年(1875)築。明治32年(1899)の大火でも燃えなかった土蔵です。蔵の脇にはレンガ造りの防火壁が設けられています。店舗と自宅は大火後の明治32年の再建。小泉家の土蔵とレンガ造りの防火壁は越ヶ谷宿の貴重な建物のひとつです。