越谷市観光協会主催「観光ぷらっとこしがや~日光街道を歩く」に参加しました(令和元年11月10日)。東武伊勢崎線の越谷駅東口から北越谷駅東口までの宿場町の面影が残る街並みをガイドさんとともに歩いてきました。ツアーの様子は越ヶ谷町と大沢町の二回に分けてお伝えします。今回は二回目。元荒川に架かる大沢橋を起点に、日光道中(旧日光街道)沿いの大沢宿とも呼ばれた大沢町の風景をお伝えします。
大沢宿とは
越ヶ谷宿は、江戸日本橋から日光東照宮の玄関口である鉢石宿(はついしじゅく)までを結ぶ日光道中(日光街道)三番目の宿場で、越ヶ谷町と大沢町との合宿(あいじゅく)でした。合宿とは、二つの町でひとつの宿場機能を形成すること。本来は越ヶ谷宿というのは越ヶ谷町と大沢町との合宿をいいますが、越ヶ谷町を越ヶ谷宿、大沢町を大沢宿(おおさわじゅく)とも呼ばれていました。商家が多かった越ヶ谷町は商業の町、旅籠が多かった大沢町は旅籠の町、という役割を担っていました。明治時代に入り、東武鉄道が開通したことで、日光街道沿いの旅籠は役割を終え、次々に廃業していきました。商家が多かった越ヶ谷町には蔵造りの建物などが今も残っていますが、旅籠が多かった大沢町には、宿場町の面影を感じる建物は残念ながら残っていません。
それでは、観光ぶらっとこしがやで歩いた大沢町の様子をお伝えします。
大沢橋|大橋
上の写真は旧日光街道(県道49号線)越ヶ谷本町交差点。前方の元荒川に架かる橋が大沢橋(大橋とも呼ばれています)。大沢橋を越えると大沢町(大沢宿)になります。現在は、越ヶ谷本町交差点までのエリアを越ヶ谷宿と呼んでいます。東武伊勢崎線・元荒川橋梁
11時15分。大沢橋を正面に見て越ヶ谷本町交差点を左折。越谷流山線(県道52号)に入ると、100メートルほど先に、元荒川に架かる東武伊勢崎線の鉄橋(元荒川橋梁)が見えます。鉄橋の位置は越谷駅と北越谷駅のちょうど中間地点です。大野家旧屋敷跡
東武伊勢崎線・元荒川橋梁下のT字路の角にマンションが建っていますが、ここは、江戸時代の資産家・大野家の旧屋敷跡です。大野家は、江戸時代は材木屋を営んでいて、目の前を流れる元荒川に舟を浮かべて材木を江戸に運んで財をなしました。江戸幕府最後の将軍(十五代将軍)徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が、越谷に鷹狩りに来たさいに、大野家に宿泊した記録も残っています。また、明治から大正にかけて、皇族が宿泊した記録も大野家の「芳名録」に残されています。
河岸場跡
大野家旧屋敷跡の前を流れているのは元荒川。江戸時代に大野家が材木屋を営んでいたときは、大野家の前を流れる元荒川右岸には、河岸場(かしば=船着場)があったそうです。今の東武線・元荒川鉄橋の下あたりです。河岸場跡の土手には、祠があり、青面金剛立像庚申塔と、辯才天・水神宮と彫られた二基の石仏が収められています。二基の石塔はともに江戸後期・文政年間に建てられたもの。水神宮は水守の神様ですので、舟運が栄えていた当時、河岸場に置かれていたものかもしれません。
元荒川歩道橋
東武伊勢崎線・元荒川橋梁の横にアーチ型の半屋根付き遊歩道が架けられています。スロープになっていので、歩行者だけてはなく自転車も通れます。この歩道橋は、東武伊勢崎線の越谷と北越谷間の旧元荒川橋梁の一部が使われています。旧元荒川橋梁は明治32年(1899)に東武伊勢崎線が開通したときに架けられましたが、関東大震災にも耐え、明治・大正・昭和・平成と、四世代にわたって、列車の運行を支えてきました。平成13年(2001)に、東武伊勢崎線の立体交差化に伴い、使命を終えましたが、貴重な遺産として、旧元荒川橋梁を後世に残すために、歩道橋として新しい役割を担っています。
上の写真は、歩道橋の中央付近から元荒川上流を望んだ景色です。右岸の河川敷は遊歩道として整備されています。左岸は桜の名所として知られる北越谷元荒川堤の桜並木です。桜が見ごろを迎える時期には、この歩道橋からも桜の景色が楽しめます。
遊歩道を渡って左折。スロープを下って元荒川左岸側の土手下に出ます。この歩道橋は、手すりが付いているだけではなく、ベビーカーやシルバーカー(高齢者用手押し車)でも通れるので、地元の多くの人たちに利用されています。
東武伊勢崎線高架下|桜堤通り
11時30分。元荒川歩道橋を降りて、東武伊勢崎線高架下(下り線側)の道(桜堤通り)を北越谷駅方面に歩きます。平成13年(2001)年に、東武伊勢崎線が高架になったことで、高架下を通る道路なども造られ、沿線の街並みの景色も様変わりしました。福井本陣跡
東武伊勢崎線の高架下をくぐって、旧日光街道(県道325号大野島越谷線)入り、訪れたのが、福井本陣跡(ふくいほんじんあと)。本陣とは、江戸時代、宿場で大名や宮家などの宿泊所として幕府から指定された家のこと。地元の名家の邸宅が本陣を担いました。越ヶ谷宿では、当初は越ヶ谷町の会田家(あいだけ)が本陣を世襲していましたが、その後、大沢町の福井家が本陣をつとめるようになりました。
現在は建て替えられているので、福井本陣跡には、当時の面影を感じる門構えなどの建築物は残っていません。ガイドさんが、当時の福井本陣屋敷図(屋敷の見取り図)を見せてくださいました。
旧日光街道|大沢の街並み
福井本陣跡を見学したあと、旧日光街道を北越谷駅方面に進み、次の訪問先である照光院(しょうこういん)へ向かいます。左前方に見えるマンションは、北越谷駅東口にある28階建てのライオンズステーションタワー北越谷。江戸時代、この道を通った旅人たちが見たらお城に見えたかもしれません。照光院
11時50分。照光院(しょうこういん)に到着。越谷市大沢2-4-6。梅花山(ばいかざん)と号す真言宗智山派のお寺です。本尊は阿弥陀如来座像。照光院は元寺子屋で、現在の大沢小学校の前身でもあり、山門の前には「大沢小学校創設の地」と刻まれた石碑が建てられています。
江戸時代、一時期、照光院が仮の本陣をつとめたこともありました。越ヶ谷宿の本陣は、最初は越ヶ谷町の会田家、続いて、照光院が仮本陣となり、そのあと大沢町の福井家が本陣をつとめました。
照光院の墓地には福井家代々の墓があります。
鐘楼(しょうろう)の下には数多くの無縁仏が並んでいます。この無縁仏は、宿場町時代、大沢宿で働いていた下女(げじょ)や飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれた娼婦たちの亡骸を当時の照光院の住職が手厚く葬って墓石にしたものだそうです。
旧荒川水路跡
照光院を出て旧日光街道を10メートほど歩くと四つ角にぶつかります。旧日光街道を横切るこの路地(上の写真。前方は東武伊勢崎線)は、元荒川の水路跡です。かつては荒川の本流であった元荒川の水路は蛇行を繰り返していたので、流路が整備される以前の名残を見ることができます。角地にあるのは水角屋(すいやくや)という屋号のおそば屋さん。埼玉県越谷市大沢3-1-25。100年以上続いている老舗です。上の写真は水角屋の対面側の路地。こちらも旧荒川水路跡です。この先を進むと越谷野田線(県道49号線)にぶつかり、元荒川の近くまで続いています。この道は水路のように蛇行しているので、地図で見ると、この路地が、かつての荒川水路だったことがうかがえます。
旧日光街道を右折。路地(旧荒川水路跡)から越谷野田線に出て左に折れ、最後の目的地である越谷香取神社に向かいます。
越谷香取神社
12時5分。越谷香取神社(こしがやかとりじんじゃ)に到着。埼玉県越谷市大沢3-13-38。創立年代は不祥ですが、約500年、前室町中期・応永年間に建てられたと伝えられています。大沢宿(大沢町)の総鎮守。大沢香取神社とも呼ばれています。今日は11月10日。日曜日で天気もいいことから、境内は、七五三詣や初宮参りに訪れた家族連れでにぎわっていました。