越谷市増森の石仏や神社と河川を巡りました。

2019年11月28日・木曜日。越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部主催の巡検に参加。越谷市増森(ましもり)にある第二越谷保育園を起点に、元荒川・新方川・中川流域の石仏や神社などを巡ってきました。越谷市の増森と中島の二地区を歩いたので、二記事に分けました。今回は越谷市増森の河川と石仏を見学した様子を写真とともにお伝えします。

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地誌研究倶楽部 巡検|2019年11月28日

地誌研究倶楽部 巡検|資料 今回、私が参加したのは、越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部が主催する巡検「増森新田と中島の河川と石仏」(2019年11月28日)。6時間かけて見学した場所は25箇所。1記事ですべてを紹介すると、かなり長くなってしまうので、増森地区と中島地区を2記事に分けてお伝えします。まずは増森地区から――

集合・出発|越谷レイクタウン駅北口

越谷レイクタウン駅北 集合時間は午前9時。集合場所はJR武蔵野線・越谷レイクタウン駅北口。参加者は17人。案内役は越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部の加藤幸一氏

第二越谷保育園前 9時10分。越谷レイクタウン駅北口からタローズバスに乗って五つ目の第二越谷保育園前で下車。9時25分、巡検スタート。天気は雨が降ったりやんだりですが、石仏や庚申塔を巡るときは、あまり天気がいいと日差しが逆光になったりして、刻まれた文字が見えにくかったりするので、石仏の巡検にはうってつけの天候です。

森西川自治会館前墓地

森西川自治会館前墓地 最初に訪れたのは、バス停・第二越谷保育園前から100メートルほど歩いたところにある森西川自治会館前墓地(越谷市増森277)。場所は元荒川左岸の土手下。墓所に庚申塔や名号塔などの石仏が点在しています。

道標付き文字庚申塔|正面 墓所と土手下の道の角地に道標付き文字庚申塔が置かれています。江戸後期・文化5年(1803)造立。正面の文字は「文化五戊辰年 庚申 三月吉日 寄嶋組 西川組 講中」。庚申塔の下には三猿が彫られています。

道標付き文字庚申塔|裏面 左側面には「吉川道」、右側面には「越ヶ谷 大相模不動 道」、裏面には「榎戸 赤岩 渡 のだ道」と刻まれています。

名号塔 笠付き名号塔。江戸初期・寛文10年(1670)造立。正面の上部に横書きで「一千日廻向」、中央に「キリーク」(梵字)「南無阿弥陀仏」、その下に「在家結衆七百余人」「結衆寮坊主浄譽悠大徳」「成蓮社辨譽上人大圓和尚」「願譽須放比丘」「十譽久念比丘」と刻まれています。

三猿庚申塔 三猿だけが彫られた三猿庚申塔。江戸初期・寛文4年(1664)造立。下部に十数人の名前が刻まれていますが、風化が進んでいて、判読不能。

倒れた庚申塔 三猿庚申塔の横に、倒れている石碑がありました。案内役の加藤氏によると「この石仏は、江戸前期・貞享4年(1687)に造られた越谷最古の青面金剛像庚申塔」とのこと。正面を下に倒れているので、残念ながら青面金剛像を見ることはできませんでした。

ねぎ畑

ねぎ畑 続いては松井家のお屋敷へ。森西川自治会館から元荒川左岸側の道を150メールとほど進んだ場所にあります。道路脇の畑ではねぎが栽培されていました。越谷は江戸時代から良質なねぎの産地として知られています。

松井家の墓石と祠

増森の松井家 9時40分。増森の松井家に到着。松井家は、江戸時代・清学院(せいがくいん)という山伏(やまぶし)のお寺の住職を務めていた家柄で、寺子屋も開いていました。明治に入ると、越ヶ谷久伊豆神社の(明治時代)初代神主を務めました。

古文書 松井家には、貴重な古文書が数多く保管されています。

墓石 敷地内の片隅に、明治期、越ヶ谷久伊豆神社の初代神主を務めた松井雄宣(まついかつのぶ)氏の墓石があります。明治4年(1871)9月4日歿。享年40。「前祠掌 松井雄宣之墓」と刻まれた両脇には前妻と後妻の名前も刻まれています。なお祠掌(ししょう)とは神職のこと。

祠 敷地内には祠があり、今回、特別に松井家のご主人が祠の中を見せてくださいました。

不動明王立像・鬼の像・位牌 不動明王立像、役行者(えんのぎょうじゃ)と赤鬼・青鬼像、松井雄宣氏の木像のほか、「東照宮大権現家康公 元和二丙辰 四月十七日」と刻まれた位牌などが安置されています。貴重なものを見せていただいたご主人にお礼を述べて松井家をあとにしました。

水路跡|元荒川~新方川

水路跡|元荒川~新方川(増森) 松井家を出て、元荒川と新方川(にいがたがわ)の間を流れていた水路跡を歩いて新方川の右岸土手道(新方川緑道)に向かいます。左側にはねぎ畑が広がり、正面前方に、越谷市増林にあるリユース(第一工場ごみ処理施設)の展望台が見えます。

新方川緑道

新方川緑道 新方川の右岸土手は整備され「新方川緑道」(にいがたがわりょくどう)と呼ばれています。前方に見えるのは新田橋(しんでんばし)。新方川緑道は中川の遊歩道を通って元荒川緑道とつながっています。

昔の河川図 案内役の加藤氏が、明治時代の河川図を使って、このあたりの川の流れの様子を説明してくれました。現在の新方川は千間堀(せんげんぼり)と呼ばれていました。松井家を出て新方川緑道に向かう道が、かつては水路だったことも分かります。

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新田橋|新方川

新田橋|新方川 10時35分。新方川(千間堀)に架かる新田橋(しんでんばし)着。新田橋を越えて左に折れ、増森新田稲荷神社へ向かいます。

増森新田稲荷神社

増森新田稲荷神社 新田橋を越えて左折。新方川左岸沿いを10メートル歩くと、越谷市消防団増林分団第四部の消防小屋があり、その隣にあるのが、増森新田稲荷神社(ましもりしんでんいなりじんじゃ)。越谷市増森2-43

石塔 境内(鳥居の右側)には、五基の石塔が並んでいます。

庚申塔 右から五基の石塔は江戸中期の造立。右端から「青面金剛像庚申塔」享保18年(1733)「青面金剛像庚申塔」明和7年(1770)「青面金剛像庚申塔」年代不詳。右から四番目は「道標付き青面金剛像庚申塔」寛政11年(1799)。右側面に「右ましはやし 左こしがや 道」と刻まれています。

弁財天塔 左端のトタン屋根で覆われた祠には石塔が置かれています。風化が激しく正面に刻まれている文字は判読不能。いちばん上の文字は「辨」(べん=弁)と彫られているので「弁財天」の文字塔と思われます。造立は江戸後期・天保9年(1838)。左側面には「當村 別当 真正寺」と刻まれています。

第六天神宮 境内(社殿を正面に見て左脇)には、第六天神宮が祀られています。江戸中期・宝暦6年(1756)建立。この第六天神宮は、先ほど訪れた松井家の敷地内にあったものを移転したものだそうです(案内役・加藤氏の解説による)。続いて真正寺跡へ

真正寺跡

真正寺跡 増森新田稲荷神社から20メートルほど離れた場所に墓地があります。ここは真正寺(しんしょうじ)というお寺の跡地です。現在は集会所になっています。墓地内には、秩父三十四箇所、坂東(ばんどう)三十三箇所、西国(さいごく)三十三箇所、四国三十四箇所、百八十八箇所の霊場を巡礼した記念碑などが建てられています。森新田稲荷神社の「弁天文字塔」の側面に「當村 別当 真正寺」と刻まれていたことから、かつてはこのあたりに真性寺があったことがうかがわれます。

雷電神社・古峯神社・三峯神社

雷電神社・古峯神社・三峯神社 新田橋に戻って、新方川を渡り、元荒川方面に進んで二つ目の角を左に折れて100メートルほど歩いたところに記念碑と祠があります。記念碑には「奉納 両社運営記念 氏子中」と刻まれています。向かって左側は雷電神社(らいでんじんじゃ)。祠の横には「雷神宮」(らいじんぐう)と彫られた小さな文字塔が置かれています。右側の祠には、古峯神社(ふるみねじんじゃ)と三峯神社(みつみねじんじゃ)が祀られています。

トイレ休憩|セブンイレブン越谷増森店

セブンイレブン越谷増森店 11時。トイレ休憩でセブンイレブン越谷増森店に寄りました(越谷市増森2513-1)。20分間休憩のあと次の目的地(旧増森村と中島村の村境)へ

平方東京線

平方東京線 セブンイレブン越谷増森店から信号を二つ超えて100メートルほど進むと平方東京線(102号線)にぶつかります。正式名称は、埼玉県道・東京都道102号平方東京線。越谷市と東京都足立区を結ぶ道路です。右に進みます。

青面金剛像庚申塔|増森村・中島村の村境

青面金剛像庚申塔|増森村・中島村の村境 道路沿いに青面金剛像庚申塔(しょうめんこんごうぞう こうしんとう)が建っています。この場所は、旧増森村と中島村の村境に当たります。住所は越谷市中島1-79。庚申塔は江戸中期・寛延4年(1751)の建立。

11時30分。増森地区の巡検はここで終了。ここから先は中島地区の巡検に入ります。

中島地区巡検の様子は別記事で

石仏の巡検 中島地区巡検の様子は下記記事でご紹介しています。途中、昼食休憩をはさんで、中川流域の庚申塔や石碑などを見学。終着の越谷駅東口で解散するまでの行程を写真とともにお伝えしています。

越谷市中島の庚申塔や寺社と河川を巡検

 

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