越谷市中島の庚申塔や寺社と河川を巡りました。

令和元年11月28日。越谷市郷土研究会の地誌研究倶楽部が主催する巡検に参加しました。見学したエリアは越谷市増森(ましもり)と中島地区。元荒川・新方川・中川流域の石仏を巡った様子を「増森編」と「中島編」の二記事に分けて紹介しています。今回は中島編。越谷市中島の庚申塔と寺社や河川を巡った様子を写真とともにお伝えします。

Ads by Google

地誌研究倶楽部 巡検|令和元年11月28日

地誌研究倶楽部 巡検|越谷市中島地区 私が参加した巡検は、越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部主催「増森新田と中島の河川と石仏」(令和元年11月28日・木曜日)。前半は、JR武蔵野線・越谷レイクタウン駅北口からバスに乗って、第二越谷保育園を起点に、案内役の加藤幸一氏とともに元荒川・新方川流域の増森地区を巡りました。

巡検の後半は越谷市中島地区

青面金剛像庚申塔|越谷市中島 前半の最終地点は、旧増森村と中島村の村境に置かれている青面金剛像庚申塔(しょうめんこんごうぞう こうしんとう)。越谷市増森地区から中島地区に入りました。ここから巡検の後半になります。

中島神社

中島神社 午前11時35分。平方東京線沿いの青面金剛像庚申塔から100メートルほど歩いたところにある中島神社(なかじまじんじゃ)に到着。越谷市中島1-56。中島村の鎮守(村社)である稲荷神社(中島稲荷神社)と諏訪神社(中島諏訪神社)が合祀されています。

中島自治会館|正福寺跡

中島自治会館 中島神社と隣接して中島自治会館がありますが、かつてこの場所には正福寺(しょうふくじ)という真言宗豊山派のお寺がありました。

地蔵像付き三界万霊塔 中島自治会館の横(中島神社の本殿裏手)に地蔵像付き三界万霊塔(さんがいばんれいとう)があります。建立は江戸後期・文化4年(1807)。三界万霊塔とは、すべての霊を供養するために建てられた塔のこと。

地蔵菩薩座像 三界万霊塔の上にある地蔵菩薩座像。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に如意宝珠(にょうほうじゅ)、左膝を立てて座っています。頭の後ろには頭光(ずこう)が施されています。

石塔 石塔の側面に「刃」の文字が入った「刃誉鮮山信女」という戒名が刻まれています。

巡検に参加した越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部の大谷氏から「この石塔には、幼くして亡くなった四人の子どもの戒名(童女・童子)も刻まれていることから、子どもを先に亡くした母親が世をはかなみ自ら命を絶ったので、それを村人たちが哀れみ、自害した母親に「刃誉鮮山信女」という戒名を付け、母親と子どもたちのすべての霊を供養するために、この三界万霊塔を建立したのではないか」との解説がありました。

「刃誉鮮山信女」の横に「妙善法尼」と刻まれていますが、大谷氏は「刃誉鮮山信女と妙善法尼は同一人物である」と考えているそうです。

ねぎ畑

ねぎ畑 中島神社をあとに次の目的地に向かって、平方東京線(102号)を歩きます。道の両脇にはねぎ畑が広がっています。

正福寺管轄の共同墓地

正福寺管轄の共同墓地 11時55分。正福寺が管轄する共同墓地に着きました。越谷市中島2-3-2。案内役の加藤氏から墓所内の地蔵像付き念仏塔と六十六部供養塔についての説明がありました。

地蔵像付き念仏塔 まずは地蔵像付き念仏塔。江戸中期・宝暦6年(1756)建立。地蔵像の右横に「念佛講中 」、左横に「宝暦六丙子九 吉祥日 如意比丘尼」と刻まれています。

六十六部供養塔 続いて六十六部供養塔。江戸中期・天明3年(1783)造立。「奉納大乗妙典六十六部供養塔」と刻まれています。六十六部(ろくじゅうろくぶ)とは、法華経を66部書き写して、日本全国66所の霊場に一部ずつ奉納して歩いた僧のこと。、六十六部行者とも呼ばれます。諸国を遍歴した六十六部行者を供養するために建てられたのが六十六部供養塔です。

三基の庚申塔と板碑

三基の庚申塔|越谷市中島2丁目 正福寺の共同墓地から50メートルほど先、平方東京線が三差路になっている角地に三基の庚申塔と板碑が一基、コンクリートの壁に囲まれて配されています(越谷市中島2-89)

庚申塔と板碑 左から●「青面金剛立像庚申塔」江戸中期・正徳4年(1714)建立。●「文字庚申塔」江戸前期貞享2年(1685)建立。十一面観音を意味する梵字(ぼんじ)が主尊として刻まれています。●庚申供養塔と刻まれた「文字庚申塔」江戸中期・宝暦9年(1759)建立。●右端の板碑は風化が著しく刻まれている文字は判読できませんでした。

中島橋|元荒川

中島橋|元荒川 三基の庚申塔と板碑を見学したあと、平方東京線(102号線)を進んで、元荒川に架かる中島橋のたもと(元荒川左岸側)へ。左手に見える工事中の橋は中川に架かる吉川橋。現在架け替え工事中の吉川橋は、令和2年(2020)の秋ごろに二車線が完成し、令和4年(2022)春ごろに四車線になる予定です。

荒川橋開通記念碑|中島橋北詰

荒川橋開通記念碑|中島橋北詰 中島橋の北詰(元荒川左岸側)土手に荒川橋開通記念碑が建てられています。右手に見えるのは中島橋。正面は元荒川。かつてはこの記念碑が建っているところから元荒川の上に「荒川橋」という橋が架かっていました。

荒川橋開通記念碑(正面) 石碑の正面には「荒川橋開通記念」と刻まれています。昭和5年(1930)5月造立。昭和5年に開通した荒川橋の記念碑です。ちなみに現在の中島橋は初代・荒川橋から数えて三代目になります。

荒川橋開通記念碑(裏面) 記念碑の裏面下に、荒川橋の建設資金を出した地元の四人の経営者の名前が刻まれています。案内役の加藤氏によると「この場所に小屋を作って、四人が交替で待機し、橋の渡し賃(通行料)を徴収した」とのこと。「橋の渡し賃は片道二銭、往復三銭」だったそうです。今の貨幣価値でいうと、2銭は20円、3銭は30円といったところでしょうか。

荒川橋跡

荒川橋跡 中島橋を渡る途中、元荒川右岸側の河川敷に、木が生い茂った一画があり、そこに橋脚(きょうきゃく=橋桁を支える柱)が見えます(上の写真の黄色い丸印)。この橋脚は、荒川橋を支えていたものです。

元荒川河川敷 中島橋を渡って、荒川橋の橋脚が残っている元荒川右岸の河川敷に下りてみました。橋脚の対岸に荒川橋開通記念碑が小さく見えます。かつてこの場所に荒川橋が架かっていたことを橋脚が教えてくれているようです。

荒川橋の橋脚 橋脚を近くで見てみました。昭和5年(1930)に竣工された荒川橋の橋脚ですから今から89年前のものになります。このままほったらかしにしておくのももったいないので、この橋脚の前に「荒川橋の橋脚」などの記念碑を建てて、対岸の「荒川橋開通記念碑」とともにかつてこの場所に荒川橋が架けられていたことを後世に伝えるだけの価値ある史跡のように思えます。

Ads by Google

昼食|食事処ふる里

食事処ふる里|越谷市東町 12時30分。中島橋を渡って中島橋信号を右折。越谷流山線(52号)沿いにある食事処ふる里(ふるさと)で昼食。越谷市東町2-120-20。予約をしておいたので、17人分の席が用意されていました。

食事処ふる里でランチ メニューは、Aランチ(エビフライと焼肉)・Bランチ(ハンバーグとエビフライ)・三点盛りランチ(焼肉・あじフライ・唐揚げ)。どれもライス・味噌汁・漬け物・デザート・コーヒー付き。メニューも事前に各自注文をとってお店に伝えておいたので、席に着くと同時にスムーズに料理が運ばれてきました。私は三点盛りランチをいただきました。

食事処ふる里には40分間滞在。13時10分にお店を出て、次の見学先に向かいます。ここから越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部の代表・秦野秀明氏が合流。巡検に加わりました。

中島の渡し場跡

中島の渡し跡 食事処ふる里を出て、中島橋に戻って元荒川を渡り、中川右岸沿いの遊歩道を上流に向かって100メートルほど歩いたところに樋門(ひもん)がありますが、かつてはこの場所に「中島の渡し」と呼ばれた中川を渡る渡し場がありました。樋門とは、河川から農業用水などを取り入れたりするための施設のこと。

青面金剛像庚申塔

庚申塔 中川右岸沿いに新しく整備された遊歩道を上流に歩いていくと、左手の畑の角地に庚申塔が建っていました(上の写真の黄色い丸印)。越谷市中島3丁目。もともとは100メートルほど下流の土手下にありましたが、道路整備のためにこの場所に移されました。

青面金剛像庚申塔 江戸中期・安永6年(1777)に作られた青面金剛像庚申塔。青面金剛像が刻まれた、よく見られるタイプの庚申塔で、青面金剛の足元には邪鬼と三猿が彫られています。

鷺山

鷺山|越谷市中島 青面金剛像庚申塔の見学を終え、中川右岸側の遊歩道に戻って上流に歩いて行くと、右手に、木が生い茂った森のような場所がありました(越谷市大字中島)。ここは白鷺(しらさぎ)の生息地で、地元では「鷺山」(さぎやま)と呼ばれています。正面に見えるのは、新方川と中川の合流地点に架かっている水管橋(すいかんきょう)です。

新方川の最南端

新方川の最南端 14時10分。水管橋を超えて新方川(にいがたがわ)右岸の遊歩道(新方川緑道)に入りました。右手に見えるのは中川と新方川に架かる水管橋。手前を流れているのは新方川。この場所は新方川の最南端(最下流)になります。越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部の代表・秦野氏から古利根川・新方川・中川の歴史と変遷についての解説がありました。

青面金剛像庚申塔と水神文字塔

庚申塔と石塔 新方川緑道を下りて、細い農道を30メートルほど進むと、畑の角地にブロックに囲まれて、庚申塔と石塔が置かれていました(越谷市中島3丁目)。水管橋から80メートルほどの場所。もともとは新方川右岸の土手下にありましたが、土手の整備のためにこの場所に移されました。

青面金剛像庚申塔と水神文字塔 庚申塔は、青面金剛像と足元に邪鬼と三猿が彫られたタイプのもので、江戸中期・宝暦10年(1760)造立。庚申塔の横にある小さな石塔は「水神」と刻まれた文字塔で、江戸末期・文化6年(1809)に建てられたものですが、風化と破損がかなり進んでいます。

青面金剛の右手 案内役の加藤氏から「青面金剛が右手で抑えているのは裾(すそ)の一部と思われる」との解説がありましたが、参加者の大谷氏から「ヘビではないか」との意見も出されました。言われてみればヘビにも見えますが、結論は今後の研究を待つこととし、ひとまず「裾の一部」ということになりました。

旧中島三丁目住宅地跡|中川右岸河川敷

旧住宅地跡|中川右岸河川敷 中川右岸の遊歩道に戻って、下流に沿って歩きます。遊歩道の左手にススキの枯れ野が広がっていますが、昭和40年代ごろまでは、この一帯(水管橋から中島橋付近までの中川の河川敷)は住宅地でした(旧中島三丁目住宅地跡)。中川の河川敷整備のために住宅は、遊歩道の右手(現在の越谷市中島三丁目)に移築されました。グーグルマップの航空写真で見ると、かつてこの場所が住宅地だった痕跡がうかがえます。

稲荷大明神文字塔|中島橋下

中島橋 14時45分。中島橋に到着。中島橋の下、元荒川右岸の河川敷(護岸)に、何やら石仏のような欠片がまとまって放置されているのが見えます(上の写真の黄色い○印)

分散した文字塔 河川敷に下りてみました。「稲荷大明神」と刻まれた文字塔や笠・台座などが、まとめられています。このあたりの河川敷か土手道にあったものが壊れてしまって、ここに置かれていると思われます。

稲荷大明神文字塔 右側面に「寛政十午四月吉日」と刻まれているので、江戸中期・寛政10年(1798)に造られた文字塔(稲荷大明神)です。

越谷流山線と旧奥州街道の分岐点

越谷流山線と旧奥州街道の分岐点 中島橋から中島橋交差点を右折。越谷流山線(県道52号線)を進みます。昼食休憩で立ち寄った食事処ふる里を過ぎると三差路にぶつかりました(越谷市東町27丁目)。右に行く道路は旧奥州街道です。上の写真の右端に見えるのは元荒川の土手(右岸)。越谷流山線をそのまま進みます。

青面金剛立像庚申塔|東福寺霊苑

青面金剛立像庚申塔|東福寺霊苑 15時。大成町交差点の手前、越谷流山線沿いにある飯島自治会館前の東福寺霊苑入口に青面金剛立像庚申塔があります。越谷市大成町7丁目。青面金剛立像が彫られた庚申塔で、江戸中期・亨保15年(1730)建立。青面金剛像の足元には邪鬼と三猿が彫られています。

帰途

朝日バス「大相模消防署前」停留所 巡検はここで終了。朝日バス「大相模消防署前」停留所からバスに乗って終着の越谷駅東口に向かいます。参加者は17人でしたが、バスに乗って越谷駅まで行くのは8人。残りは各々解散となりました。

終着・解散|越谷駅東口

越谷駅東口 15時20分。越谷駅東口に到着。案内役・加藤幸一氏のあいさつのあと解散。9時10分にJR武蔵野線・越谷レイクタウン駅北口を出発して、元荒川・新方川・中川流域を約6時間かけて巡ってきました。加藤氏の解説によって越谷市増森地区と中島地区の知られざる歴史や史跡に触れることができました。

増森地区巡検の様子は別記事で

不動明王立像 JR武蔵野線・越谷レイクタウン駅北口からバスに乗って、第二越谷保育園を起点に、元荒川・新方川・中川流域の石仏や神社など越谷市増森地区を歩いた巡検(前半)の様子は下記の記事でご紹介しています。松井家のお屋敷では一般公開されていない祠の中の不動明王立像なども特別に見学させていただきました。

越谷市増森の石仏や神社と河川を巡検

 

Ads by Google

コメントは受け付けていません。