北越谷からせんげん台の旧日光街道沿いの庚申塔などを巡りました。

2019年12月12日・木曜日。越谷市観光協が主催する街歩きイベント「観光ぷらっとこしがや」に参加。東武伊勢崎線の北越谷駅西口を起点に、埼玉鴨場・大林香取神社・秀蔵院跡・大里稲荷神社・第六天の算額・松崎ダルマ産業・下間久里香取神社・間久里の立場など、せんげん台駅までに至る旧日光街道沿いの庚申塔や寺社をはじめ越谷の史跡・名所を巡ってきました。

 

観光ぶらっとこしがや|2019年12月12日

観光ぶらっとこしがや(2019年12月12日) 今回、私が参加したのは「観光ぶらっとこしがや~北越谷駅―せんげん台駅日光道中~」。参加費は300円(保険代など)。巡った場所は16箇所。越谷市観光協会のガイドさんとともに歩いた約5キロ・2時間半の街歩きの様子を写真を交えてお伝えします。

集合・出発|北越谷駅西口広場

北越谷駅西口 集合場所は東武伊勢崎線・北越谷駅西口広場。午前9時10分着。受付担当者に名前を確認。参加費300円を払って、班名の書かれた名札と資料をいただきました。

北越谷駅西口広場 参加人数は45人。15人ずつ3班に分かれ、各班ごとにガイドさんとアシスタントが付きました。私は1班。ガイドさんは越谷市観光協会のボランティアガイド。班ごとにガイドさんの紹介が行なわれ、9時20分、スタート

東武伊勢崎線ガード下 北越谷駅の構内を西口から東口に抜けて直進。最初の信号を左に折れて旧日光街道を進みます。東武伊勢崎線のガード下をくぐると正面に元荒川左岸側の土手が見えてきました。赤や黄に色づいた木々が青空に映えています。

北越谷河畔砂丘

北越谷河畔砂丘 9時30分。元荒川左岸沿いの土手に到着(越谷市北越谷5丁目)。右手に北越谷第五公園が見えます。元荒川が蛇行しているこの場所は、「河畔砂丘」(かはんさきゅう)といって、砂丘なんだそうです。越谷に砂丘があったとは驚きです。

河畔砂丘の解説 ガイドさんから越谷の河畔砂丘についていの解説がありました。越谷市には、元荒川の流路(流路跡)沿いに◇袋山河畔砂丘◇大林河畔砂丘◇北越谷河畔砂丘◇東越谷河畔砂丘◇大相模河畔砂丘――の五つの河畔砂丘があるとのこと。ちなみにここは北越谷河畔砂丘になります。

元荒川土手の石仏|北越谷

元荒川土手の石仏|北越谷 元荒川左岸土手(北越谷河畔砂丘)の片隅、埼玉県道325号大野島越谷線(旧日光街道)沿いに三基の石塔が並んでいます(越谷市北越谷5丁目)

庚申塔と墓石 右端の石仏は、道標付き文字庚申塔。江戸中期・寛政3年(1791)造立。正面は「青面金剛」(しょうめんこんごう)と刻まれ、その下に三猿が彫られています。右側面には「左 じおんじ のじま 道」と刻まれています。

正面の石塔は、正面の上部に光明真言(こうみょうしんごん)の曼陀羅(まんだら)が刻まれ、その下に「法印円心不生位」とあります。法印(ほういん)とは僧侶の位。「不生位」(ふじょうい)とは真言宗の僧侶の位号なので、真言宗の僧侶の墓石と思われます。造立は江戸中期・享保10年(1726)

左端は「信女」(しんにょ)「居士」(こじ)とあるので個人の墓石です。

埼玉鴨場

埼玉鴨場|正門前 9時45分。続いて訪れたのは宮内庁埼玉鴨場(さいたまかもば)着。鴨場は、鴨の狩猟期間(11月中旬から翌年2月中旬)に、天皇陛下の思し召し(おぼしめし)により内外の賓客の接待の場として使われている宮内庁管轄の施設で、埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」と、千葉県市川市の「新浜鴨場」(にいはまかもば)の二箇所があります。

埼玉鴨場|正門 鴨場は一般公開されていませんが、埼玉鴨場は、埼玉県在住者を対象に、一年に二回、見学会が行なわれています。募集は各回とも30人程度で、定員を上回る申込者があった場合は抽選となります。上の写真は宮内庁埼玉鴨場の正門。ふだんは閉ざされています。

鴨場見学会の写真 ガイドさんが鴨場見学会の写真を見せてくださいました。

大林香取神社の庚申塔

大林香取神社 9時55分。大林香取神社(おおばやしかとりじんじゃ)に到着。越谷市大林311。旧大林村の鎮守で、創建年代は不詳ですが、江戸時代初期には祀られていたといわれています。

庚申塔 参道の脇に三基の石仏が並んでいます。

青面金剛像庚申塔 左端は青面金剛像庚申塔(しょうめんこんごうぞうこうしんとう)。江戸中期・享保5年(1720)造立。青面金剛像の足元に正面を向いた邪鬼、その下に三猿が彫られています。

文字庚申塔|青面金剛 真ん中は、文字庚申塔(もじこうしんとう)。江戸後期・天明8年(1788)造立。正面に「青面金剛」(しょうめんこんごう)左に「國土安全」、右に「天下太平」と刻まれ、下には三猿が彫られています。

文字庚申塔 右端は、文字庚申塔。上の部分が架けてしまっていますが、「申塔」とあるので「庚申塔」と刻まれていた思われます。江戸後期・天保10年(1839)造立。左側面に「埼玉郡 大林村 講中」(さいたまぐん おおばやしむら こうちゅう)とあります。

大里の庚申塔|旧日光街道沿い

大里の庚申塔|旧日光街道沿い セブンイレブン越谷大林店の駐車場前(越谷市大里538)、旧日光街道沿いの路傍(電柱脇)に小堂があり、中に青面金剛立像が置かれています。造立は江戸中期・宝永7年(1710)。青面金剛像の足元に邪鬼、その下に三猿が彫られています。

踏切|特急りょうもう

特急りょうもう セブンイレブン越谷大林店を過ぎ、旧日光街道を80メートルほど歩くと、東武伊勢崎線(北越谷駅―大袋駅)の踏切にぶつかりました。ちょうど信号待ちとなり、特急りょうもう(下り)が通過しました。

板碑庚申塔

石仏 踏切を渡って旧日光街道を直進。ダンロップタイヤ関東(株)越谷営業所(越谷市大里821-3)の敷地脇フェンスの横に三基の石仏が縦に並んでいます。手前は勢至菩薩立像(せいしぼさつりつぞう)で、奥は釈迦如来立像(しゃかにょらいりつぞう)

板碑庚申塔 真ん中は、板碑型(いたびがた)の庚申塔、江戸前期・寛文9年(1669)に造られた板碑庚申塔(いたびこうしんとう)です。並べられている石仏の間隔が狭いので板碑に刻まれている文字が読みにくいのですが、「石佛庚講衆」「新方領大里村」「武州葛飾郡」などの文字が見えます。石塔の下には三猿が彫られています。

 

須賀用水

須賀用水 旧日光街道を進むと、道路の下を交差して用水路が通っています。蓋をされてしまっているので水の流れは見えませんが、これは、さいたま市岩槻区と越谷市を流れる須賀用水(すかようすい)です。須賀堀(すがぼり)とも呼ばれています。

大里自治会館(秀蔵院跡)庚申塔

里自治会館 10時25分。大里自治会館に到着。越谷市大里742-2。現在は墓地だけになっていますが、ここは昔、秀蔵院(しゅうぞういん)という真言宗のお寺でした。

石仏 墓地の片隅に四基の石仏が並んでいます。

青面金剛像庚申塔 右端は、青面金剛像庚申塔(しょうめんこんごうぞうこうしんとう)。江戸中期・正徳4年(1714)造立。青面金剛の足元に邪鬼、その下に三猿が彫られています。

普門品供養塔 右から二番目は、普門品供養塔(ふもんぼんくようとう)。江戸末期・文化11年(1814)造立。普門品供養塔とは、法華経の観世音菩薩普門品(観音経)を一定回数読誦した記念に建てる供養塔のこと。

文字供養塔 右から三番目は、”文字供養塔。正面に「青面金剛」(しょうめんこんごう)と彫られています。江戸後期・寛政11年(1799)造立。右側面に「武州崎玉郡新方領大里村」とあります。

大六天文字塔 左端は、大六天文字塔(だいろくてんもじとう)。造立年代は不詳。「大六天」と刻まれていますが「大六天」は「第六天」と表記されるのが一般的です。

トイレ休憩|スーパーバリュー越谷店

スーパーバリュー越谷店 10時30分。トイレ休憩でスーパーバリュー越谷店に寄りました。埼玉県越谷市下間久里197-1。休憩時間は15分。

越谷の大里に隕石が落ちた話

越谷の大里に隕石が落ちた話 トイレ休憩のあと、ガイドさんが、越谷の大里に隕石が落ちた話をしてくれました。隕石が落ちたのは明治35年(1902)3月。当時はかなりの話題となり「東京朝日新聞」にも掲載されたそうです。

大里稲荷神社

大里稲荷神社 10時55分。トイレ休憩を終えて次に向かったのは、草加バイパス(下り線)越谷高架橋下の側道沿いにある大里稲荷神社(おおさといなりじんじゃ)。越谷市大里712。大里稲荷神社は大里村の鎮守として祀られてきましたが、創建年代は不詳。本殿の隣には八幡神社が祀られています。

石祠|大里稲荷神社 境内には三基の石祠(せきし)が並んでいますが、風化がはげしく、刻まれている文字などを読み取ることはできませんでした。

第六天の算額

第六天社|越谷市下間久里 大里稲荷神社(大里)をあとに旧日光街道を右折。下間久里(しもまくり)に入りました。訪れたのは第六天社(だいろくてんしゃ)。越谷市下間久里1400。江戸時代からある古社で、日光街道沿いにひっそりと祠が祀られています。

第六天の算額 祠の中に、算額(さんがく)が納められています。算額とは、江戸時代の数学者が、算術の問題などを描いた額を神社に奉納したもの。第六天の算額は、江戸末期・文久2年(1982)に、下間久里村の高橋要蔵によって奉納されたもので、円周と径などを算定する問題と解答が示されています。この算額は「第六天の算額」(だいろくてんのさんがく)の名で越谷市の有形民俗文化財にも指定されています。

松崎ダルマ産業

松崎ダルマ産業 11時10分。続いて立ち寄ったのは、旧日光街道沿いにある松崎ダルマ産業。越谷市下間久里1312。越谷だるまの製造・販売を手がける工房です。見学も受け付けていますが、12月はダルマ制作の繁忙期にあたるので、今回は、門の外から敷地内を見るだけにとどめました。

越谷だるまの解説 ガイドさんが越谷だるまについて解説してくれました。越谷では江戸中期から達磨づくりが始められ、上品でやさしい顔立ちから、川崎大師や柴又帝釈天などにも納められています。 越谷だるまの生産量は年間40万個。「越谷張子だるま」(こしがやはりこだるま)として埼玉県の伝統的手工芸品にも指定されています。

下間久里香取神社|下間久里の獅子舞

下間久里香取神社 続いて下間久里香取神社(しもまくりかとりじんじゃ)へ。松崎ダルマ産業から旧日光街道を挟んで20メートルほど離れた場所にあります。越谷市下間久里1226。下間久里村の鎮守として祀られています。創建年代は不詳。毎年、七月の第三日曜日に、埼玉県の無形民俗文化財に指定されている「下間久里の獅子舞」が行なわれます。ガイドさんが「下間久里の獅子舞」について解説してくれました。

下間久里の獅子舞 下間久里の獅子舞については下記の記事でお伝えしてます。香取神社の境内で奉納される獅子舞や下間久里地区の各家庭を回る「村回り」と呼ばれる儀式などを取材した様子を動画や写真にまとめてあります。

間久里の立場|秋田炉

間久里の立場跡 下間久里香取神社をあとに旧日光街道をせんげん台駅方面に進みます。続いて訪れたのは、間久里の立場(まくりのたてば)跡。越谷市千間台東4丁目。現在は個人宅。立場(たてば)とは、江戸時代、宿場町に設けられた休憩所のこと。越ヶ谷宿と粕壁宿の中間地点にあたるこの場所(間久里=まくり)は、八軒茶屋と呼ばれ、茶屋が並んでいました。

間久里の立場と秋田炉の解説 ガイドさんが間久里の立場と名物の鰻の蒲焼きの話をしてくれれました。すぐ近くには元荒川が流れていたので、間久里は鰻の蒲焼きが名物でした。八軒茶屋のなかの秋田屋には、秋田の殿様が参勤交代のときに必ず立ち寄って、鰻の蒲焼きを食べ、自分専用の座敷まで建てたそうです。この座敷は秋田炉(しゅうでんろ)と呼ばれました。

せんげん台交差点

んげん台交差点 11時45分。旧日光街道を進んで立教入口交差点で日光街道(国道4号)と合流。日光街道を250メートルほど歩いて、せんげん台交差点に着きました。ガイドさんが「千間台」(せんげんだい)の地名の由来や「せんげん台駅」の歴史について解説してくれました。

帰路

帰路 日光街道からせんげん台交差点を左折。帰路へ。終着地点のせんげん台駅東口に向かいます。

終着・解散|せんげん台駅東口

終着|せんげん台駅東口 11時50分。せんげん台東口に到着。ガイドさんのあいさつのあと11時55分解散。

行程表|観光ぶらっとこしがや 午前9時半に東武伊勢崎線・北越谷駅西口を出発して歩いた距離は約5キロ。所要時間は2時間半。「観光ぶらっとこしがや~北越谷駅―せんげん台駅日光道中~」は、ガイドさんのていねいな解説もあって、今まで素通りしていた旧日光街道周辺(越谷市大林・大里・袋山・上間久里・千間台東地区)の庚申塔や歴史に触れることができました。
今回の観光ぶらっとこしがや「北越谷―せんげん台 日光道中」では、上記のほかにも宝性寺・大林寺・不動堂・冷水井戸などを訪れたほか、地元に伝わるカッパ伝説など興味ある話もガイドさんから聞けましたが、紙面の都合で、写真での紹介と場所の説明は割愛しました。

観光ぶらっとこしがや日光街道巡り体験記

越谷市・日光街道沿いの史跡を巡りました|蒲生~南越谷
日光街道越ヶ谷宿の寺院や史跡と古い建物を巡ってきました。
日光道中・越ヶ谷宿(大沢町)の寺社や史跡を歩きました。

観光ぶらっとこしがや|越谷市観光協会

観光ぶらっとこしがやは越谷市観光協会が定期的に主催している街歩きイベントです。問い合わせは 越谷市観光協会(観光ぶらっと係)まで。電話番号は 048-971-9002 。受付時間は午前9時から午後5時。水曜日は定休日。住所は 〒343-0828 越谷市レイクタウン4-1-4。窓口での対応も可。駐車場あり。観光ぶらっとこしがやの日程や内容については広報こしがやでも掲載されます。
 

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