2019年9月29日・日曜日。越谷市・出羽地区コミュニティ推進協議会主催「歴史散歩ウォーキング」に参加。出羽地区センターを起点に、綾瀬川・古綾瀬川流域の石仏や史跡を巡ってきました。越谷市(七左町・大間野町・蒲生西町・蒲生愛宕町・蒲生)草加市(長栄・金明町・八幡町)10キロの道のりを歩いたので、往路と復路の二記事に分けました。今回は、往路の様子をお伝えします。
第12回 歴史散歩ウォーキング|2019年9月29日
今回、私が参加したのは、越谷市の出羽地区コミュニティ推進委員会が主催する「令和元年 第12回 歴史散策ウォーキング~新綾瀬川・古綾瀬川・岩槻古道の散策~」(2019年9月29日)。綾瀬川・古綾瀬川・出羽堀跡・新川に沿って歩き、周辺地区の歴史に触れました。道のりは約10キロ。4時間半かけて巡った場所は35箇所。1記事ですべてを紹介すると、かなり長くなってしまうので、往路と復路の二回に分けてお伝えします。
今回は往路。出羽地区センター(越谷市七左町)から八幡西公園(草加市八幡町)まで約5キロ、七左衛門川・くわい田・大沼大明神・縄文時代の丸木舟発見地・蒲生の一里塚など23箇所を廻った様子を写真とともにお伝えします。
集合・出発|出羽地区センター
集合時間は8時45分。集合場所は出羽地区センター(越谷市七左町4-248-1)。参加者は9人。アシスタントとして出羽地区センターのスポレク委員7人。案内役・越谷市郷土研究会の加藤幸一氏のあいさつのあと、9時出発七左衛門川
出羽地区センターを背に、七左衛門川(しちざえもんがわ)沿いの道を進みます。正面に共同印刷・越谷工場が見えます。蒲生岩槻線(県道324号線)に沿って流れる新川を渡って、七左衛門川を左に見ながら綾瀬川へ向かいます。
綾瀬川|火葬場跡
綾瀬川左岸の土手を上流に向かって歩きます。対岸(右岸)は川口市。戸塚綾瀬小学校と川口市戸塚環境センター(ごみ焼却施設)が見えます。昔、このあたり(綾瀬川左岸の土手下/越谷市七左町4丁目付近)の一画に火葬場があった、という説明が、案内役の加藤氏からありました。今は火葬場跡は工場になっているので、昔の面影はありません。
くわい田
左手に、くわい田が見えてきました。くわい(慈姑)は越谷の農産物のひとつで、全国でも有数の生産量を誇っています。栽培面積は減ってきていますが、越谷市では出羽地区や荻島地区で栽培されています。草むらの土手道
くわい田を過ぎたあたりで、土手道の舗装が途切れ、草むらになっていました。一見すると道には見えません。引き返して回り道をする方法もありましたが、このまま進んだほうが近道だということで、草をかきわけながら土手道を進みました。200メートルほど草むらの土手道を歩くと、再び舗装された土手道に出ました。大沼跡
綾瀬川の対岸(右岸)は草加市。新栄団地が見えます。昔、この一帯は「大沼」(おおぬま)と呼ばれる広大な沼地でした。新栄団地は大沼跡地に建てられました。七左衛門川
綾瀬川の土手を下りて左折。越谷市立武蔵野中学校の裏手にある大沼大明神へ向かいます。綾瀬川から左に50メートルほど行ったところに(綾瀬川に沿って)七左衛門川が流れています。七左衛門川の左岸(上の写真の右側)は越谷市、右岸(上の写真の左側)は草加市です。江戸時代は、七左衛門川の左岸は埼玉郡で、右岸が足立郡でした。大沼大明神
9時40分。出羽地区センターを出発して40分後。大沼大明神(おおぬまだいみょうじん)に到着。越谷市七左町4丁目。創建年代は不詳。江戸時代にはこの場所に鎮座していたと伝えられています。このあたり(武蔵野中学校付近一帯)も昔は広大な沼地でした。大沼大明神は小高い場所に建てられていることから沼地に面して祀られていたことがうかがわれます。三基の石塔|持福院跡
大沼大明神の裏手にある墓地に三基の石塔が並んでいます。右は大きな文字で「庚申」と彫られた庚申塔(こうしんとう)。江戸後期・文政6年(1823年)造立。中央は 青面金剛立像(しょうめんこんごうりつぞう)が彫られた庚申塔。江戸中期・天明4年(1784年)造立。左は「庚申」と彫られた庚申塔。江戸後期・文化7年(1810年)建立。昔はこの場所に持福院というお寺がありました。綾瀬川の土手道
9時55分。大沼大明神をあとに綾瀬川の左岸に戻って土手道を上流に向かって歩きます。対岸(右岸)に見えるのは新栄団地(草加市新栄4丁目)。土手には彼岸花が咲いていました。B29尾翼落下場所
一ノ橋手前。戦時中(昭和19年12月)、400メートルほど先(綾瀬川右岸・草加市長栄2丁目周辺)に B29 が墜落し、墜落の衝撃で B29 の尾翼が、このあたり(綾瀬川左岸・越谷市大間野5丁目付近)に飛んできて落下したそうです。秘密裏に処理されたので正式な記録としては残っていません。よしすやの藤棚跡|一ノ橋
10時20分。一ノ橋に到着。昔この場所は、綾瀬川の河岸場(かしば)として栄え「よしずや河岸」(よしずやかし)と呼ばれていました。橋のたもとには弁天藤(べんてんふじ)と呼ばれる藤棚(よしずやの藤棚)がありました。なお弁天藤は河川工事のために現在は出羽公園に移植されています。一ノ橋|欄干の藤の図案
綾瀬川に架かる一ノ橋の欄干(らんかん=手すり)には、弁天藤をモチーフにした藤の花が施されています。休憩|長栄中央公園
10時25分。一ノ橋を渡って綾瀬川右岸にある長栄中央公園でトイレ休憩。住所は草加市長栄3-12。出発地点の出羽地区センターから約2.5キロ。往路(5キロ)のちょうど半分まで来ました。長栄中央公園にも藤棚がありますが、弁天藤(よしずやの藤棚)ではありません。同行の出羽地区センター・スポレク委員の方から参加者全員に冷たい麦茶の差し入れがありました。汗をかいて喉が渇いていたので美味しい麦茶で水分補給ができました。10時35分。10分間の休憩を終え、往路の最終地点である八幡西公園(草加市八幡町)へと向かいます。八幡西公園まではおよそ2.5キロの道のりです。
旧綾瀬川跡の土手道
10時35分。長栄中央公園を出て、綾瀬川右岸下の道を歩きます(草加市長栄3丁目11番地付近)。この道は江戸時代から続く古道で昔は旧綾瀬川の土手道でした。今は水路に蓋をされて小路になっていますが、うねっている様子から、ここが昔は川(旧綾瀬川)だったことがうかがわれます。
B29墜落現場跡
10時40分。B29墜落現場跡に到着。太平洋戦争中の昭和19年12月。足立区保木間にある高射砲陣地から狙撃された米軍の爆撃機B29が、このあたり(草加市長栄2丁目付近)に墜落しました。当時この一帯は田んぼでした。墜落の衝撃で、B29の尾翼が400メートルほど先の一ノ橋あたりまで飛んでいったそうです。なおこのB29墜落については秘密裏に処理されたので正式な記録としては残っていません。旧綾瀬川跡
B29墜落現場跡から旧綾瀬川跡(草加市長栄2丁目10番地付近)を歩きながら綾瀬川に向かいます。綾瀬川橋下
正面に日光街道(草加バイパス)が見えてきました。左側は綾瀬川。綾瀬川に架かっている橋は綾瀬川橋になります。草加バイパスの下をくぐって綾瀬川右岸土手へ綾瀬川沿い桜並木
綾瀬川右岸土手を蒲生大橋方面に向かって歩きます。土手道にそってヒガンバナが咲いています。土手道の右側は桜並木。綾瀬川沿いの桜並木は草加市の桜の名所にもなっています。桜の見頃時期には、草加バイパスや東武伊勢崎線の車窓からも桜を愛でることができます。馬頭観音|村はずれの馬捨て場跡
10時55分。土手道の横に二基の馬頭観音(ばとうかんのん)がありました。どちらも江戸中期の造立。江戸時代、この場所は村はずれにあたり、農耕や荷物の運搬に使っていた馬が死ぬと、ここに葬る馬捨場(うますてば)でした。馬頭観音は、馬の無病息災の守り神として信仰され、死んだ馬を供養するために建てられたものです。縄文時代の丸木舟の発見地
11時。昭和4年(1929年)綾瀬川と中川の合流地点付近で、川底さらいをやっているときに、縄文時代の丸木舟が発見されました。平成13年(2001年)に分析を行なったところ約5,300年前・縄文時代前期のものと判明。現在この丸木舟は、草加市立歴史民俗資料館に展示されています。くわい田|草加市
綾瀬川右岸の土手道を上流に向かって進みます。右手(草加市金明町付近)に、くわい田が見られます。草加市でも新田地区を中心にクワイの栽培が行なわれています。旭神社|氷川神社
11時10分。旭神社(あさひじんじゃ)の裏手に到着。氷川神社とも呼ばれています。住所は草加市金明町1332。創建年代は不詳ですが、本殿は江戸中期に建てられました。時間がおしていたので、お参りはせすに、本殿の裏手から手を合わせただけで、そのまま土手道を進みます。東武線の高架下をくぐると綾瀬川の対岸(左岸)に蒲生の久伊豆神社の杜が見えます。江戸時代、綾瀬川を境に、蒲生の久伊豆神社は埼玉郡の鎮守、旭神社(氷川神社)は、足立郡の鎮守でした。
綾瀬橋
足立越谷線(49号線)綾瀬橋のたもとを越えて蒲生大橋方面へ向かって綾瀬川右岸側の土手道を進みます(上の写真は綾瀬橋)蒲生大橋
11時30分。蒲生大橋(がもうおおはし)に到着。橋のたもと(右岸側)に、高浜虚子の俳句「舟遊び 綾瀬の月を 領しけり」(ふなあそび あやせのつきを りょうしけり)が埋め込まれています。蒲生大橋の右岸側は草加市(旧足立郡)、蒲生大橋の左岸側は越谷市(旧埼玉郡)。蒲生大橋の中間が草加市と越谷市の境にあたります。蒲生大橋を渡って草加市側から越谷市側に入ります。蒲生の一里塚
11時35分。蒲生の一里塚(がもうのいちりづか)に到着(越谷市蒲生愛宕町11-34)。場所は越谷市側・蒲生大橋のたもと。一里塚とは、江戸時代、街道沿いに一里ごとに道しるべとして設けられていた塚で、目印(めじるし)として、塚の上にエノキやマツなどが植えられていました。蒲生の一里塚には、ムクエノキやケヤキなどの巨木が植えられています。道路の拡張などで一里塚は次々に姿を消してしまい、埼玉県内の日光街道筋に現存するのはここだけになってしまいました。蒲生の一里塚は埼玉県の史跡に指定されています。蒲生の一里塚には愛宕神社が鎮座しています。
一里塚の遊歩道脇、石段を降りたところに、赤い前掛けを掛けられた地蔵菩薩立像や不動明王座像など九基の石仏が並んでいます。右端の二基の石碑は、江戸中期・宝暦9年(1759年)造立の十三仏供養塔と「成田山」と彫られた成田山供養塔(幕末・安政4年=1857年造立)