栃木市平柳(旧平柳村)の鎮守・平柳星宮神社(ひらやなぎほしのみやじんじゃ)。本殿に合祀されている虚空蔵菩薩の神使であるうなぎをモチーフにした御朱印が人気を呼んでいますが、境内の猿田彦大神文字塔や鳥居横の十九夜供養塔・地蔵菩薩像などにも出会えます。2020年6月15日に現地で調査をした石仏や石碑を写真とともにお伝えします。
鳥居横
まず目を引くのが鳥居横(鳥居に向かって左手)の塀際に並べられている5基の石仏(いしぼとけ)と石碑。もともとは別の場所にあったものも置かれていると思われますが、歴史が伝わってきます。なお「石仏」は、一般的には「せきぶつ」と呼ばれていますが、個人的には「いしぼとけ」という響きが好きなので、ここでは「いしぼとけ」と呼称します。石橋寄附人名碑
向かって右端にあるのは「花崗石橋寄附人名碑」(かこうせきばしきふじんめいひ)と刻まれた石柱碑。石柱碑と境内の間に幅1メートルほどの水路が見えますが、かつて、ここに花崗石を用いた石橋が架かっていて、その橋を造るさいに寄附をした氏子または村人の名前を刻んだもの思われます。現在は石橋はありません。石柱碑の風化が進んでいて、側面に刻まれているであろう造立年代および人名を確認することはできませんでした。表面の文字が削り取られた石塔
花崗石橋寄附人名碑の隣に表面の文字が削り取られた石塔があります。劣化によって文字が見えなくなったというのではなく、あきらかに人為的に削られています。明治初年の神仏分離令による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動の影響を受けて、石塔の表面に彫られていた「仏名」または「題目」が削り取られたものと思われます。また石塔の頂部が丸みを帯びていることと、石の厚みもかなりあることから、もしかしたらこれは文字塔や題目塔ではなく、地蔵菩薩立像か観音菩薩立像で、廃仏毀釈のあおりを受けて、首が落とされたものかもしれません。そういう視点で眺めてみると、頭頂部は石仏の首にも見えてきます。
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは、仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する、という意味で、明治初年に、政府の神道国教化政策・神仏分離政策によって、全国的に引き起こされた仏教排斥運動のことをいいます。暴走した民衆によって、仏堂や仏像が破壊されたり、経文などが燃やされました。庚申塔や石仏なども廃仏毀釈の対称となり、川や池に捨てられたり、壊されたりしています。
地蔵菩薩立像
丸彫りの地蔵菩薩立像(じぞうぼさつりゅうぞう)。首にはお地蔵さんらしく、赤いよだれかけが、かけられています。造立年代は不詳。風化が進んでいますが、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)を持ったお姿と思われます。如意輪観音が彫られた石塔
如意輪観音(にょいりんかんのん)が彫られた石塔です。正面に文字が刻まれていたようですが、劣化がひどく解読不能。如意輪観音は、十九夜塔(じゅうくやとう)など月待供養(くよう)や念仏供養(ねんぶつくよう)の主尊として造立されていること、また隣には「十九夜供養」文字塔が置かれていることから、十九夜供養塔かもしれません。また、江戸時代、如意輪観音は女性に篤く信仰されていたことから、女性の墓標に彫られている例も数多く見受けらますが、女性の戒名を表わす「信女」(しんにょ)の文字らしきものは見当たらないので、やはりこの石塔は、女性の墓石ではなく、十九夜供養塔などの月待供養塔と思われます。
十九夜供養文字塔
向かって左から二番目にあるのは、江戸後期・天保12年(1841)造立の十九夜供養(じゅうくやくよう)文字塔。正面に「十九夜供養」と刻まれ、左側面には「天保十二年 辛丑 六月十九日」とあります。栃木県には、十九夜塔が数多く見受けられることから、この地域でも、十九夜の月待講(つきまちこう)と呼ばれる女性たちの念仏講=女人講が盛んだったことがうかがわれます。首なし石仏
左端は首なし石仏。明治初年の政府による神仏分離政策によって起こった廃仏毀釈(仏教排斥運動)によって、首が落とされたものと思われます。村同士の対立やいたずらなどで仏像の首が壊されたという可能性もありますが、ここにこうして並べられているということは、当時の歴史(廃仏毀釈)を後世に伝えようとする村人たちの意志がはたらいているように見受けられます。境内
境内では、猿田彦大神(さるたびこおおかみ)を祀った文字塔や敷石寄附記念碑のほか見事な彫刻が施された狛犬などを見ることができます。猿田彦大神文字塔
鳥居をくぐって左手にある猿田彦大神文字塔。江戸末期・万延元年(1860)造立。自然石に「猿田彦太神」と刻まれています。祀られているのは交通安全の神として崇められている猿田彦命(さるたびこのみこと)。猿田彦命は天狗様とも呼ばれ、文字塔のうしろにあるヒバの木は、天狗様(猿田彦大神)が宿るご神木で、天狗ヒバと呼ばれています。裏面には「萬延元年 庚申 仲冬吉日建立」と刻まれています。「庚申」(こうしん)とあること、江戸時代後期の神道系・庚申塔では「猿田彦大神」が主尊とされていることから、これは庚申塔ではないかとも思いましたが、星宮神社のパンフレットには「社殿のない神社である」と記されているので、庚申塔ではなく、猿田彦命を御祭神とする境内社のようです。
江戸時代は、元号(げんごう)と干支(かんし)を組合せて年号を表記していました。元禄6年であれば「元禄六年 癸酉」(みずのと・とり)、寛政3年は「寛政三年 辛亥」(かのと・い)。猿田彦大神文字塔の造立年である萬延元年の干支は「庚申」(かのえ・さる)なので、「萬延元年 庚申」というのは、庚申塔であることを示しているのではなく、萬延元年の干支を表わしている、といえそうです。また江戸時代は旧暦を使っていたので、当時の月日と今の月日は一致しません。
敷石寄附記念碑
天狗ヒバの横に二基の石碑が並べられています。造立年代は不詳。小さいほうの石碑には「鳥居前敷石寄附 泉町有志」、大きいほうの石碑には「敷石新設之碑 寄附 泉町有志」と刻まれているので、どちらも地元・和泉町(いずみちょう)有志によって建立された敷石寄附の記念碑です。狛犬
拝殿前の狛犬も存在感があります。力強く流れるような文様が特徴。上の写真は神殿に向かって右の狛犬です。造立は大正六年(1917年)。台石の裏に奉納人と石工の名が刻まれています。こちら(上の写真)は、神殿に向かって左側の狛犬。通常、狛犬は、口を開いている阿形(あぎょう)と、口を閉じている吽形(うんぎょう)が一対になっていますが、平柳星宮神社の狛犬は、左右ともに口を軽く開いています。左右ともに阿形の狛犬というのは初めて見ました。