一言主神社の石仏群|畜頭観音・庚申塔…他<茨城県常総市>

関東平野のほぼ中央近くに位置している茨城県常総市の古社・一言主神社(ひとことぬしじんじゃ)。創建は平安時代まで遡ります。あまり知られていませんが、本殿裏手には石仏群があります。その数およそ三十基。庚申塔・二十三夜塔・三猿塔……。中には畜頭観音と刻まれた珍しい石塔も。風化や破損のために銘や建立年月が読みとれない石仏も多々ありますが、現地で撮影した写真とともに一言主神社の石仏群をご紹介します。

 

一言主神社の石仏群

一言主神社の石仏群

本殿裏手にある三十基近い石仏は、もともとは一言主神社にあったものではありません。区画整理や廃社・廃寺などの理由で持ち込まれたものなので、由緒などを正確に把握することはできませんが、主銘や脇銘を手がかりに、石仏の種類や年代、どんな人がどんな目的で建てたのか、なとを探ることは可能です。

畜頭観音

畜頭観音

石仏群の中で珍しいのは「畜頭観音」と刻まれた文字塔。昭和37年(1963)造立。畜頭観音というのは、はじめて目にしました。「畜頭」とは何でしょうか? 畜産業界で個体数を数えるときに「畜頭」という言葉が使われるので、食肉処理された牛や豚などの供養塔とも思われます。

『日本石仏事典』庚申懇話会編(昭和50年12月25日発行)によると「東京都北区の東覚寺に金魚やリスなどのペット類が描かれた畜霊観音と呼ばれる坐像がある」ことから、動物全般の供養塔かもしれません。または馬頭観音の亜種でしょうか。

石仏関連の文献をいろいろ当たってみましたが、「牛頭観音」と「豚頭観音」はあるものの「畜頭観音」について記述されたものは見つかりませんでした。そこで、一言主神社に聞き込み取材を行なったところ以下のような回答を得ました。

社殿裏手の石仏や屋敷神は、いずれも祭祀者不明や祭祀継続困難となったものが最終的に当社へ移管されてきたものなので、当社へやってくる段階ではすでに来歴や由緒などは不明となっていることがほとんどです。

あくまでも所感ですが、「畜頭観音」は、おそらくこれは馬頭観音の変型ではないかと思われます。馬頭観音は本来、馬の供養だけではなく、動物そして畜生道に落ちた衆生一般の救済仏ですので、「畜頭観音」を建立した方は、そのような功徳に期待して「馬」を「畜」とあえて表記したのかもしれません。
畜頭観音とは
「畜頭観音」文字塔

畜頭観音は、建立者(※1)の造語で、馬頭観音の「馬」を「畜」に変えて、馬や動物の供養のほか畜生道に落ちた人々を救済する菩薩として祀ったもののようです。

※1 「畜頭観音」文字塔には建立者の氏名が刻まれていますが個人名なので伏せました。

庚申塔

青面金剛

一言主神社の石仏群の中でいちばん数が多いのは庚申塔で11基。青面金剛像が浮き彫りされたものが二基、「庚申塔」や「青面金剛」などの文字が刻まれた文字塔が七基。猿像(三猿)と真言が刻まれた庚申塔(三猿刻像塔)が二基あります。
青面金剛像庚申塔|寛政12年
青面金剛像庚申塔(寛政12年)

青面金剛像が浮き彫りされた江戸後期・寛政12年(1800)の庚申塔。ちなみに寛政12年の干支は庚申(かのえさる)。60年に一回めぐってくる庚申の年に当たります。正面の最頂部に日月、中央に邪鬼を踏みつけている一面六臂(ろっぴ=腕が六本)の青面金剛像、その下に三猿が陽刻されています。左側面には「寛政十二庚申年」「導師 文殊院 歓海」、右側面には「十一月吉日」「管生村中」「願主 倉持治兵衛」とあります。
青面金剛像庚申塔|正徳5年
青面金剛像庚申塔(正徳5年)

江戸中期・正徳5年(1715)に造立された青面金剛像庚申塔。石塔の最頂部と青面金剛の顔の部分が破損しているほか、石碑表面の剥落(はくらく)も目立ちます。正面は邪鬼を踏みつけている一面六臂の青面金剛像。足の両脇に二鶏。その下に三猿。欠損している最頂部には日月が陽刻されていたものと思われます。確認できる銘は「奉造立青面金剛一躰」「敬白」「正徳五未」「□月吉日」「下総國相馬郡大塚戸村」
「青面金剛」文字庚申塔|寛政12年
青面金剛文字庚申塔(寛政12年)

「青面金剛」と刻まれた文字庚申塔。江戸後期・寛政12年(1800)造立。寛政12年は60年に一度めぐってくる庚申の年。この年には多くの庚申塔が建立されています。石塔は駒型。最頂部に「日月」が陰刻されていて、主銘は「青面金剛」。脇銘は「寛政十二庚申」「堀込(※2)講中」とあります。

※2 かつてこの地に堀込(ほっこめ)という地域がありました。

文字庚申塔|嘉永7年
文字庚申塔(嘉永7年)

「庚申塔」と刻まれた文字塔。山状角柱型。江戸後期・嘉永7年(1854)造立。正面の上部に日月が陽刻され、中央に大きく「庚申塔」と陰刻されています。右側面に「嘉永七寅三月吉日」とあります。その他の銘は欠損によって確認できません。
庚申供養塔|明和3年
庚申供養塔(明和3年)

江戸中期・明和3年(1766)造立の庚申供養塔。石塔の型は櫛型。主銘は「奉造立 庚申供養塔」。脇銘は「明和三 丙戌」「十一月吉日」。そのほか「十人」という文字が確認できるので、庚申講の講中10人で建てたものと思われます。
文字庚申塔|慶安4年
文字庚申塔(慶安4年)

江戸前期・慶安4年(1651)の文字庚申塔。石塔は板碑型。主銘は「奉 寄進 庚申」。脇銘に「慶安四年」「大塚戸村」「十月吉日」「寄進者の名前」がみえます。石塔の下部に蓮華(れんげ=蓮の花)が浮き彫りされています。見た目は同時代の墓石と同じ。庚申塔の特徴である三猿も刻まれていません。これは庚申信仰が青面金剛を主尊とする前、江戸時代前期の庚申塔の特徴といえます。
道標付き文字庚申塔|弘化5年
道標付き文字庚申塔(弘化5年)

江戸後期・弘化5年(1848)の道標付き文字庚申塔。石塔は駒型。主銘は「庚申塔」。脇銘に「弘化五」「三月吉日」とあり、「西 かしみち」の文字が見えます。「かしみち」は河岸道のことでしょうか。このあたりの西側には飯沼川が流れているので、飯沼川の河岸(かし)に続く道があったのかもしれません。右側面に「東 みつかいどう」「北 □う志んみち」(※3)とあります。「みつかいどう」は「水海道」。左側面には「南 のらみち」(野良道)と刻まれています。

※3 「北 □う志んみち」については分かりません。引き続き調査していきます。

庚申待供養塔|宝暦12年
庚申待供養塔(宝暦12年)

江戸中期・宝暦12年(1762)の庚申待供養塔。石塔は櫛型。正面に「奉 待庚申供養」の主銘が彫られ、脇銘に「宝暦十二午年」「五月吉日」とあります。下部に「誓願」と刻まれたような文字がかすかに確認できます。
三猿刻像塔|延宝2年
三猿刻像塔(延宝2年)

江戸前期・延宝2年(1674)の猿像が刻まれた庚申塔。三匹の猿(見ざる・聞かざる・言わざる)が刻まれているので三猿刻像塔とも呼ばれています。石塔は板碑型。左右に「延宝二年申寅九月大吉祥日」「下総國北相馬郡大塚戸村」とあり、中央に大日如来を表わすアーンクと真言(※4)が梵字で刻まれています。三猿の下には陽刻された蓮の葉。

真言の左右に「日月」が陰刻され、真言の下に「奉造立庚申供養」とあります。三猿の上に「普光寺」とあり、その横に八人の名前が刻まれているので、普光寺に庚申堂が設けられていて、そこで庚申待がおこなわれていたか、普光寺の檀家八人で庚申講を作っていたのかもしれません。

※4 梵字のアーンクは大日如来を表わすので、真言の梵字は大日如来の真言「オン・ア・ビ・ラ・ウン・ケン」と刻まれているようにも見えます。

三猿刻像塔|寛文12年
三猿刻像塔(寛文12年)

江戸前期・寛文12年(1672)の三猿刻像塔。石塔は板碑型。最頂部の左右に「日雲と月雲」(日月雲)が配置され、下部に三猿が浮き彫りされています。中央に「奉新造立庚申供養」、両脇に梵字で真言が刻まれています。両側の枠の部部分には「下総國北相馬郡大塚戸村」と「寛文十二年壬子十月大吉祥日」、三猿の下に「施主 九人の氏名 敬白」。三猿の下の部分に施主全員の名前が納まりきらなかったようで猿の両脇に二名の名前が見えます。施主は全部で11人。
 
続いて紹介するのは猿田彦大神文字塔

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