幸手市南と中の寺社等を幸手宿観光ガイドの案内で巡った。

2020年11月28日・土曜日。幸手宿観光ガイドの会が主催する「宿場あるき」に参加しました。幸手駅西口ロータリーを起点に、祥安寺・大阿寺仲墓地・鈴木百淵夫婦の墓石・上高野神社・太子堂・日光道中と日光御成道との合流点・琵琶溜井・石井酒造・神宮寺・薬師堂・心鏡院など幸手市南と中地区の寺社や史跡を巡ってきました。

 

幸手宿 宿場あるき|2020年11月28日

幸手宿 宿場あるき~幸手駅西口コース~ 今回、私が参加したのは「幸手宿 宿場あるき~幸手駅西口コース~」(主催・幸手宿観光ガイドの会)。参加費は200円(保険代など)。巡った箇所は15箇所。ガイドさんとともに 2時間半かけて歩いた町並みを写真とともにお伝えします。

集合・出発|幸手駅西口ロータリー

幸手駅西口ロータリー 集合場所は東武日光線・幸手駅西口駅前広場バス停前。集合時間は午前8時50分。受付担当者に名前を確認。参加費を払って、本日の巡回コース案内などの資料をいただきました。参加人数は10人。案内役は幸手宿観光ガイドの会のみなさん6名。各自、渡されたイヤホンガイドを装着。ガイドさんの自己紹介のあと注意点を確認し、午前9時出発。

サボテンのモニュメント

サボテンのモニュメント ロータリーの端にサボテンのモニュメントが二つあります。2019年(平成31年)3月に新設された幸手駅西口のシンボルとして設置されました。

調整池工事風景

調整池工事風景|幸手駅西口 幸手駅西口エリアは現在、道路整備や親水公園の造成など区画整理事業によるまちづくりの開発中。治水対策として調整池も造られています。上の写真は調整池の工事風景。前方に見えるのが幸手駅西口。あと数年もすると、四季の移ろいを感じる緑あふれる空間になるとのことです。

祥安寺

祥安寺 9時10分。曹洞宗の寺院・祥安寺(しょうあんじ)に到着。幸手市南3-5-6。江戸時代、この地を開発した新井右馬之助(あらいうまのすけ)の養子・中村平左衛門が妻と娘の菩提を弔うために建立したお寺で、中村家の菩提寺になっています。本尊は正観音。
中村家の墓
中村家の墓|祥安寺 上の写真は中村家の墓。中村家祖先代々の墓石をはじめ宝篋印塔(ほうきょういんとう)や年忌供養塔などが並んでいます。
百淵遺徳の碑と大般若波羅蜜多経六百巻供養塔
百淵遺徳の碑と大般若波羅蜜多経六百巻供養塔 祥安寺には、江戸時代の神学者・鈴木百淵(すずきひゃくえん)が、約20年かけて書写した「大般若波羅蜜多経」(だいはんにゃはらみつたきょう)・通称「大般若経」600巻が保管されています。この写経は幸手市の文化財に指定されています。鈴木百淵は、地元・幸手(旧上高野村)出身。境内には、鈴木百淵の功績を称える「百淵遺徳の碑」と、大般若経600巻を書写したことを供養するための「大般若波羅蜜多経六百巻」供養塔が並んで建てられています。

大阿寺仲墓地(光福寺跡)

大阿寺仲墓地(光福寺跡) 続いて訪れたのは、鈴木百淵夫婦の墓がある大阿寺仲墓地(光福寺跡)。祥安寺から南へ500メートルほど歩いた先、さいたま幸手線(埼玉県道65号)沿いにあります。住所は幸手市南二丁目13。現在は墓地しかありませんが、かつては光福寺というお寺がありました。
無縁塚
無縁塚 墓地にあるピラミッド状の無縁塚。地蔵菩薩・如意輪観音・観世音菩薩などを主尊に陽刻した墓石が数多く積み上げられています。
鈴木百淵夫婦の墓石
鈴木百淵夫婦の墓石 鈴木百淵は、光福寺に文中堂という寺子屋を開き、子どもたちに読み書きを教えていました。墓地の一画(無縁塚の前)に、百淵の死後、筆子中(ふでこちゅう=寺子屋の生徒たち)によって建てられた鈴木百淵夫婦の墓石があります。石碑には「鈴木百淵先生之墓」 と刻まれ、その横に「壽光大師」とあります。「壽光大師」は百淵の妻の戒名。

カスリーン台風 実績浸水深

カスリーン台風 実績浸水深 大阿寺仲墓地を出てしばらく歩いた道路沿いの電柱に、昭和22年(1947年)に関東地方に甚大な災害をもたらしたカスリーン台風時の浸水深(しんすいしん)を記した水害表示板が設置されていました。カスリーン台風に襲われたとき、幸手のこのあたりは 1.2メートルも浸水したとガイドさんが教えてくれました。電柱に、1.2メートルの高さを示す赤いビニールテープが巻かれていました。

移動中

幸手市南二丁目周辺の町並み 紅葉で色づき始めた住宅街を歩きながら次の目的地・上高野神社(かみたかのしんじゃ)へと向かいます。

上高野神社

上高野神社 9時35分。4番目の訪問先、上高野神社(かみたかのじんじゃ)に到着。住所は幸手市南2-12-18。明治42年(1909)に、上高野村の村社の一つであった八坂神社(江戸時代は牛頭天王社〈ごずてんのうしゃ〉と呼ばれた)を中心に、村内の11社を合祀。翌年、社号を上高野神社と改めました。八坂神社の創建は慶長5年(1600)と伝えられています。
黄葉
黄葉 境内ではイチョウが黄葉を迎えていました。
拝殿内部と幣殿
拝殿内部と幣殿 今回は特別に拝殿内部と幣殿も見学することができました。

拝殿天井画 拝殿の天井には大きな龍が描かれています。迫力満点。龍のパワーを授かりました。
天満宮
天満宮|上高野神社 境内社の天満宮。この地を治めていた幸手一色氏(さっていっしきし)が室町時代(応永のころ)に、鎌倉の荏柄天神社(えがらてんじんじゃ)を勧進したもので、幸手五大天神社のひとつに数えられています。
浅間社
浅間社|富士塚 社殿の横にあるのは浅間社。富士山を模して造られた富士塚になってています。頂上には自然石に「浅間大神」(あさまのおおかみ)と刻まれた石碑、そのほか「食行身禄」(じきぎょうみろく)「小御嶽社」(こみたけしゃ)「参明藤開山」(さんみょうとうかいさん)などの文字が刻まれた石碑も見られます。
大般若波経六百巻書写供養塔
大般若波経六百巻書写供養塔 境内の一画に、大般若経600巻を書写した鈴木百淵の書写供養塔があります。造立は江戸後期・天明2年(1782)。石碑の右側面に「天明二 壬寅 三月吉日」とあります。正面の主銘に「大般若經六百巻書寫供養塔」、脇銘に「願主 百淵居士」「同 壽光大師」とあるので、百淵夫婦が願主となって生前に寄進したものと思われます。壽光大師は百淵の妻の戒名。「居士」「大師」と位号が刻まれているので、百淵に頼まれていた誰かが、百淵夫婦の死後に建てたものかもしれません。
力石
力石 大般若經六百巻書写供養塔の横に「力石」(ちからいし)と刻まれた石の上に注連縄が張られた力石が置かれています。石の重さと奉納者の名前などは確認できませんでしたが、大きさからすると50貫(約100キロ)ほどでしょうか。
石仏|庚申塔・二十三夜塔
石仏|庚申塔・二十三夜塔 天満宮の裏手に、青面金剛像が陰刻された庚申塔、「庚申塔」「庚申供養塔」などの文字が刻まれた庚申塔、二十三夜塔など二十基ほどの石仏が並んでいました。
鳥居
鳥居|上高野神社 石鳥居を抜けて上高野神社をあとにしました。
 
次は太子堂へ

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