栗橋宿まち歩きツアーに参加。静御前まつりも見物しました。

2019年10月19日・土曜日。久喜市観光ボランティアガイド会が主催する「栗橋宿まち歩きツアー」に参加しました。栗橋駅を起点に、静御前のお墓・一言神社・経蔵院・栗橋八坂神社・栗原関所跡碑・深廣寺・六角名号塔など、栗橋の歴史と史跡を巡ってきました。当日は栗橋駅東口駅前で静御前まつりも開催されていたので静御前パレードなどのイベントも見物してきました。

 

栗橋宿まち歩きツアー|2019年10月19日

栗橋宿まち歩きツアー(2019年10月19日) 今回、私が参加したのは「栗橋宿まち歩きツアー」(主催・久喜市観光ボランティアガイド会)。参加費は無料。巡った箇所は13箇所。ガイドさんとともに約2時間かけて歩いた久喜市栗橋地区の街並みと、栗橋駅前で催されていた静御前まつりの様子を写真を交えてお伝えします。

集合・出発|JR栗橋駅改札前

JR栗橋駅改札前 集合時間は午前9時30分。集合と受付場所はJR栗橋駅改札前。参加人数は20人。案内人は4名(久喜市観光ボランティアガイド)。ガイドさんの自己紹介のあと二班に分かれて10時に栗橋宿まち歩きスタート

静御前の墓

静御前の墓 10時5分。最初に訪れたのは静御前の墓(しずかごぜんのはか)。久喜市栗橋中央1-2。源義経(みなもとのよしつね)の内妻であった静御前のお墓です。頼朝に追われて京都から奥州に逃れた義経を追って奥州に向かう途中で義経の死を知った静御前が、文治5年(1189)9月15日この地で亡くなり、埋葬されました。

静女之墳|レプリカ 墓には墓標がなかったので、江戸後期・享和3年(1803)に、勘定奉行・関東郡代を務めていた中川飛騨守忠英(なかがわひだのかみただてる)が、墓に墓標がないことを哀れんで建立しました。墓標には「静女之墳」(しずじょのはか)と彫られています。正面に置かれている墓標(上の写真)はレプリカです。

静女之墳 本物(静女之墳)は、風化を防ぐために、お墓の脇の厨子(ずし)の中に安置されています(上の写真)。静御前の墓は久喜市の史跡にも指定されています。

義経招魂碑・静女所生御曹司供養塔 墓所内には、義経と離ればなれのままでは哀れと、昭和4年(1929)9月15日(静御前の命日)に建立された義経招魂碑(よしつねしょうこんひ)と、男の子だったために生まれてすぐに由比ヶ浜(ゆいがはま)の砂浜に埋められてしまった静御前と義経の子どもの魂を供養するために建てられた静女所生御曹司供養塔(しずじょしょせいおんぞうしくようとう)が並んでいます。

上の写真の左が義経招魂碑、右が静女所生御曹司供養塔。ちなみに「所生」とは「産んだ子」のこと。静女所生御曹司供養塔とは、静女(静御前)が産んだ子息(御曹司)の魂を供養するための塔という意味になります。「義経招魂碑」の「招魂」は、死者の霊を呼び戻して(招いて)鎮めることを意味します。

一言神社|一言明神

一言神社|一言明神 10時20分。続いて訪れたのは、静御前の墓から50メートルほど先にある一言神社(ひとことじんじゃ)。一言明神(ひとことみょうじん)とも呼ばれています。久喜市栗橋中央1-2。亡くなった静御前魂を鎮めるために、身の回りの世話をしていた侍女(じじょ)の琴柱(ことじ)が祠(ほこら)を建てたもの。琴柱はここで一生を送りました。一言神社の隣にある小さな社は稲荷社です。

青面金剛 参道には、青面金剛像庚申塔(しょうめんこんごうぞうこうしんとう)がありました。江戸中期・元禄2年(1689)造立。

鎌倉古道

鎌倉古道 一言神社をあとに次の目的地に向かいます。このあたり(久喜市栗橋中央・栗橋北地区)は鎌倉古道(かまくらこどう)の面影が今も残っています。

静御前墳塋参道道標 静御前墳塋参道(しずかごぜんふんえいさんどう)と彫られた道標が道の途中にありました。「墳塋」(ふんえい)とは「お墓」のこと。

旧利根川土手跡

旧利根川土手跡 10時25分。旧利根川土手跡に着きました。久喜市栗橋北1丁目付近。江戸時代、利根川(古利根川)はこの周辺を流れていました。上の写真の道路は当時の土手の部分になります。ゆるやかに曲がって延びている道の形状が当時の面影をわずかに残しています。

利根川の地図 ガイドさんが昔このあたりが利根川だったころの地図を見せてくれました。

宝治戸池

宝治戸池 10時35分。宝治戸池(ほうじどいけ)に到着。久喜市栗橋北1丁目。江戸中期・寛保2年(1742)に発生した浅間川(利根川旧流路)の氾濫によってできた池。この洪水は寛保二年江戸洪水・寛保の大洪水とも呼ばれています。

香取神社|栗橋北

香取神社|鳥居 続いて香取神社へ。久喜市栗橋北2-14-14。創建の時代は不明。江戸前期・寛永年間(17世紀)には鎮座していたようです。御神木のケヤキが見事。隣にあるお寺は経蔵院(きょうぞういん)です。

香取神社|拝殿と境内 拝殿の前には「伊勢太二講記念」(いせだいだいこうきねん)と彫られた石碑と、境内の脇には「大辨財天文字塔」(だいべんざいてんもじとう)が見られます(上の写真の右下)

伊勢代代講(いせだいだいこう)とは、交代で伊勢参りをするために費用を積み立てた組合のこと。江戸時代に盛んに行なわれました。伊勢講(いせこう)太太講(だいだいこう)とも呼ばれています。

関所番士屋敷跡

関所番士屋敷跡 10時40分、関所番士屋敷跡(せきしょばんしやしきあと)着。久喜市栗原北2-3394-2。番士屋敷とは、蔵原関所に勤務していた番士(警備にあたった武士)の住まいです。栗橋関所番士屋敷は、加藤・足立・冨太・島田の四軒が、代々、番士を務めました。そのうち一軒は、現在でも足立家の子孫の方は同じ場所に暮らししています。

経蔵院

経蔵院 続いて経蔵院(きょうぞういん)へ。埼玉県栗橋町北2-14-16。平安時代前期・貞観年代(859~877)に慈覚大師(じかくだいし)により創建されたと伝えられている古刹(こさつ)です。鎌倉時代、奥州にいる義経を慕って、侍女の琴柱(ことじ)とあとを追った静御前でしたが、この地で病に倒れ、経蔵院で養生につとめましたが、短い生涯を閉じました。

主人を失い、西向尼(さいこうに)という尼僧になった琴柱は、京都から静御前の御持仏(ごじぶつ)である地蔵菩薩を持ち帰って、経蔵院に本尊として祀ったと伝えられています。この地蔵菩薩は乾漆地蔵菩薩立像(かんしつじぞうぼさつりゅうぞう)の名で、久喜市の有形文化財(彫刻)に指定されています。

栗橋八坂神社

栗橋八坂神社 10時55分。トイレ休憩地でもある栗橋八坂神社(くりはしやさかじんじゃ)に到着。安土桃山時代から江戸時代にかけての慶長年間(1596~1615)に、利根川が氾濫したとき、この地に鯉と亀に守られた神輿(みこし)が漂着したことから社が築かれたのが始まりといわれています。

狛鯉(阿)招福の鯉 栗橋八坂神社で目を引くのが社殿を守っている狛犬ならぬ狛鯉(こまごい)です。拝殿に向かって右側の口を大きく開けている阿形(あぎょう)の鯉が、招福の鯉。

狛鯉(吽)除災の鯉 社殿に向かって左側、口をぎゅっと結んでいる吽形(うんぎょう)の鯉が、除災の鯉です。波に浮かぶ鯉の下には亀の彫刻も見られます。

栗橋八坂神社|御神木 拝殿の横は樹齢300年の御神木(ケヤキ)をはじめ多くの巨木が植えられていて鎮守の杜になっています。現在、神社の裏手では利根川の堤防強化工事が進められていて、工事に伴い、今年(令和元年)の12月から栗橋八坂神社の移転工事が始まります(移転先は隣の敷地)。御神木のケヤキなど鎮守の杜の木々は残念ながら伐採されてしまうことになるようです。

西本陣跡・脇本陣跡・本陣跡

 data-recalc-dims=西本陣跡・脇本陣跡・本陣跡” />
宿場町時代、栗橋八坂神社の鳥居から50メートルほど先の地点(利根川橋南詰の土手下あたり)には、本陣・脇本陣・西本陣がありました。本陣とは、江戸時代に大名や幕府の役人が泊まった宿のこと。脇本陣はそれに準ずる宿。西本陣も同じ。脇本陣を務めた虎屋(とらや)の建物は平成22年(2010年)まて存在していましが、今は、当時の形跡を示すものは何も残されていません。

日光道中分間延絵図(栗橋宿部分) ガイドさんが、江戸後期・文化3年(1806)に作られた「日光道中分間延絵図」(にっこうどうちゅう ぶんけん のべえず)の「栗橋宿部分」を見せてくださいました(複製)。利根川や関所、本陣などが描かれています。※本物の日光道中分間延絵図は東京国立博物館に所蔵されています。

栗橋関所跡碑

栗橋関所跡碑 11時20分。栗橋関所跡碑に立ち寄りました。明治2年(1869)まで続いた日光街道唯一の関所・栗橋関所(正式名称は房川渡中田御関所=ぼうせんわたしなかだおんせきしょ)が、この場所にあったことを伝えるために、利根川橋の開通を記念して、大正13年(1924)に建碑されました。現在は、利根川堤防拡幅工事のために、旧栗橋町商工会館跡地(久喜市栗橋北2-5-19)に仮移転されています(上の写真)

日光街道の街並み

日光街道の街並み 栗橋関所跡碑を見学したあと、日光街道を進みます。看板建築の商家や木造二階建ての家も見られ、宿場町の名残が感じられます。

宝来屋

宝来屋 トイレ休憩を兼ねて、老舗の和菓子店・宝来屋(ほうらいや)に寄りました。埼玉県久喜市栗橋北2-4-12。宝来屋の名物は、八坂神社の名にちなんで名づけた焼饅頭「八坂の栗っ子」。丹波栗がまるごと一個入っています。店内では和カフェも楽しめます。

日光御廻道

日光御廻道 11時35分。宝来屋をあとに、日光街道を進み、「栗橋駅入口」信号を過ぎて「東三丁目」信号の手前を右折。日光御廻道(にっこうおまわりみち)に入りました。日光御廻道とは、江戸時代、川の氾濫で日光街道を通って将軍家が日光東照宮に参拝(日光社参)できないときに備えて造られた迂回路。ただし日光社参(にっこうしゃさん)のときに水害は一度も起こらなかったので、日光御廻道が使われることは一度もありませんでした。

深廣寺

深廣寺|山門 1140分、最後の訪問先、深廣寺(じんこうじ)に到着。埼玉県久喜市栗橋東3-7-24。浄土宗のお寺です。

恵比寿像 参道で恵比寿さまが出迎えてくれました。

深廣寺|本堂 江戸後期・元和元年(1615)開山。本堂の前には樹齢300年を超える松の木や墓所には栗橋の開墾者・並木五郎平(なみきごろべえ)の墓などかあります。並木五郎平の墓は久喜市の史跡にも指定されています。

六角名号塔

六角名号塔 深廣寺の境内でひときわ目を引くのが六角名号塔(ろっかくみょうごうとう)です。六角名号塔とは、塔の断面が六角形をした石塔で、「南無阿弥陀仏」の六字(六字名号)が六面すべてに刻まれています。石塔の数は21基。高さは約3メートル60センチ。六角名号塔は久喜市の文化財(建造物)に指定されています。

帰路

志ほや 11時50分。深廣寺・六角名号塔の見学を終え帰路へ。上の写真は「志ほや」(埼玉県久喜市栗橋東2-1-11)。地元に根ざした昔ながらのパン屋さんです。宿場の名前を冠した焼菓子「栗原宿」も人気の一品。

帰着・解散

クラッセくりはし 正午に、静御前の墓に隣接している商店街・クラッセくりはしに帰着。ガイドさんのあいさつのあと解散。歩いた時間はちょうと2時間。「栗橋宿まち歩きツアー」は、ガイドさんの奥深い解説で、栗橋の歴史を掘り下げて知ることかできました。

関連記事

幸手宿 宿場あるきに参加。幸手の史跡と名所を巡りました。
粕壁宿の寺町を歩くツアーで春日部観光スポットを巡りました。
越ヶ谷宿の新旧名所を巡る|2019年10月5日
杉戸宿めぐりに参加。杉戸の名所・旧跡を歩いてきました。

久喜市観光ボランティアガイド会

埼玉県久喜市では、久喜市観光ボランティアガイド会が主催する街歩きイベントが行なわれています。ガイドコースは久喜地区・菖蒲地区・栗橋地区・鷲宮地区。問い合わせや申し込みについては久喜市観光ボランティア会事務局(久喜市菖蒲総合支所 久喜ブランド推進課内)まで。電話番号は 0480-85-1111(内線137・131)です。

 

静御前まつり|静御前絵巻パレード

静御前まつり横断幕 栗原駅東口周辺では、ちょうど静御前まつりが行なわれていました。静御前まつりは栗橋ひめプラザ協同組合が毎年10月に主催する秋の恒例行事で、静御前パレードや特設舞台でのライブのほか、さまざまなイベントが催されます。

さくまひできライブ 特設舞台では、埼玉県出身のシンガーソングライター・さくまひできさんのライブが行なわれていました。

静御前絵巻パレード 静御前絵巻パレード 静御前(しずかごぜん)源義経(みなもとのよしつね)童子(とうじ)袙姿(あこめすがた)白拍子(しらびょうし)の姿に身をやつした行列が練り歩く静御前パレードは、令和から鎌倉時代へタイムスリップしたかのようです。

ゆるキャラ 久喜市のマスコットキャラクター、しょうぶパン鬼一(しょうぶパンキー)・栗橋みなみ・来久ちゃん(ライクちゃん)・かがみんも登場。握手や写真撮影にも快く応じてくれていました。

珈琲茶房ハーモニーでランチ

珈琲茶房ハーモニー 駅前の時計を見たら12時半。おなかがすいたなと思ったら、栗橋駅東口駅前の珈琲茶房ハーモニーというお店が目に止まりました。昭和の時代からやっている感じのお店です。入口の案内板に「本日のランチ えびカツカレー サラダ・みそ汁付」と書かれています。えびカツカレーというのがこれまたおいしそう。珈琲茶房ハーモニーでお昼ごはんを食べることにしました。

エビカツカレーランチ 珈琲茶房ハーモニーの創業は昭和47年(1972)とのこと。本日のランチ、えびカツカレーが届きました(アイスコーヒーも注文)。えびカツカレーもさることながらサラダやみそ汁もどの料理もていねいに心を込めて作っている味です。47年間愛され続けてきたお店の味に感激。栗橋宿まち歩きツアーの最後に素敵なお店に出会えて、菊橋の町がとっても好きになりました。
 

コメントは受け付けていません。