2019年10月26日・土曜日。幸手宿(さってじゅく)観光ガイドの会が主催する幸手宿場町歩きに参加しました。幸手駅東口ロータリーを起点に、東武鉄道日光線開通記念碑・明治天皇行在所跡・志手橋・岸本家住宅主屋・旅館あさよろず・永文商店・問屋場跡・本陣跡・愛の妻路地・石太菓子店など、幸手の史跡と歴史を感じる名所を巡ってきました。
幸手宿 宿場あるき|2019年10月26日
今回、私が参加したのは「幸手宿 宿場あるき」(主催・幸手宿観光ガイドの会)。参加費は200円(保険代など)。巡った箇所は24箇所。ガイドさんとともに 2時間半かけて歩いた幸手宿場町歩きの様子を写真を交えてお伝えします。集合・出発|幸手駅東口ロータリー
集合場所は東武日光線・幸手駅東口ロータリー。集合時間は午前8時50分。受付担当者に名前を確認。参加費を払って、本日の巡回コース案内と幸手宿のガイドブックなどの資料をいただきました。参加人数は7人。案内人は幸手市の観光ガイド(幸手宿観光ガイドの会)3名。出発の前にガイドさんが幸手宿の歴史と幸手城について解説してくれました。東武鉄道日光線開通記念碑
幸手駅(さってえき)東口ロータリーの脇(ファミリーマート幸手駅東口店の斜め前)に東武鉄道日光線開通記念碑があります。杉戸駅=現東武動物公園駅から東武日光駅に至る東武日光線が昭和4年(1929年)に開通したことを記念する石碑です。9時5分。幸手宿めぐりスタート
一色稲荷神社
最初に訪れたのは一色稲荷神社(いっしきいなりじんじゃ)。幸手駅東口から東さくら通りを100メートルほど歩いたところにあります。幸手市中1-15-31。別名・陣屋稲荷(じんやいなり)。境内では、赤い前掛けを着けた二対・二組の狐の使わしめ(狛狐=こまぎつね)が本殿を守っています。明治天皇行在所跡
9時15分。続いて立ち寄ったのは明治天皇行在所跡(めいじてんのうあんざいしょあと)。埼玉県幸手市中1丁目。明治14年(1881)と明治29年(1896)に、明治天皇が巡幸(じゅんこう=天皇が各地をめぐり歩くこと)したさい、幸手に宿泊したことを伝える公園です。行在所(あんざいしょ)とは、天皇が旅行の途中で休憩や宿泊をする場所のこと。幸手の行在所は、元・本陣の知久家(ちくけ)と、元名主の中村家が務めました。石碑には明治大帝行在所御跡(めいじたいてい あんざいしょ みあと)と彫られています。題字を書いたのは東郷平八郎(とうごうへいはちろう)元帥
志手橋
9時20分。旧日光街道と御成街道(おなりかいどう)が分岐する手前、倉松川(くらまつがわ)にかかる志手橋(しでばし)に着きました。志手橋は昔(大正時代ごろまで)は木橋(もっきょう)でした。現在は、昭和初期に造られたといわれる石造の橋(石橋)が、当時の面影を伝えています。
カスリーン台風 実蹟浸水深
志手橋から次の見学先・神明神社(しんめいじんじゃ)に向かう途中、さいたま幸手線(埼玉県道65号)沿いの電柱に、昭和22年(1947年)に関東地方に甚大な災害をもたらしたカスリーン台風時の浸水深(しんすいしん)を記した水害表示板が設置されていました。ガイドさんの話によると、カスリーン台風に襲われたとき、幸手のこのあたりは 1.2メートルも浸水したそうです。電柱に、1.2メートルの高さを示す赤いビニールテープが巻かれていました(上の写真)
神明神社|田螺不動
9時30分。神明神社に着きました。幸手市中2-1-5。幸手宿の入口にあたります。江戸中期・宝暦5年(1755)建立。境内には、境内には、田螺不動(たにしふどう)とも呼ばれている菅谷不動尊(すがたにふどうそん)や成田不動尊(なりたふどうそん)なども祀られています。岸本家住宅主屋
続いて、幸手駅入口交差点のそばにある岸本家住宅主屋(きしもとけしゅうたくおもや)へ。土蔵造り二階建て(一階木造平屋建て)。江戸時代末期に建てられ、岸本家住宅主屋の名で、国の登録有形文化財にも登録されている貴重な文化遺産です。現在は主屋だけが残っていて、古民家カフェとして活用されています。岸本家は、大正時代までは、上埜屋(うえのや)という屋号で醤油醸造業を営んでいて、明治13年(1900)のパリ万博では、銅賞を受賞しました。ガイドさんが、パリ万博で上埜屋が銅賞を受賞したときの表彰楯の表彰文と明治時代の上埜屋が描かれた絵図のコピーを見せてくれました。
幸手食堂跡
こちら(上の写真)幸手駅前通りと県道さいたま・幸手線の交差点(幸手駅入口)です。この場所(信号脇の敷地)には、昔、食堂や酒場など、多くの飲食店が入っていた建物がありました。上の写真の二階建て建物の場所です。名称は幸手食堂。「今でいうと幸手フードパークですね」と、ガイドさん。ガイドさんが、開店当時の写真を見せてくれました。建物は二階建て。「西洋御料理」と書かれた看板が掲げられていて、「幸手食堂 洋食 酒場 牛鳥料理 総菜」と書かれた文字が見えます。開店記念の写真でしょうか。花輪の前で、それぞれのお店の店主や使用人などが椅子に座って写真に収っています。なおここは昭和40年代ごろまでやっていたそうです。
旅館あさよろず
幸手駅入口交差点から旧日光街道を100メートルほど歩いたところにあるのが旅館あさよろず。昔は「朝萬」と表記。埼玉県幸手市中1-6-22。江戸後期・文政2年(1819)創業。伊藤博文をはじめ板垣退助や大久保利通なども宿泊した老舗旅館です。建物はリニューアルされて現代的な造りになりましたが、かつては木造三階建てでした。オーロール東城屋
道路をはさんで旅館あさよろずの前にあるのはオーロール東城屋(とうじょうや)。埼玉県幸手市中2-2-12。創業90年の老舗パン屋です。ガイドさんが昔(昭和初期)の東城屋の写真を見せてくれました。看板は「東城屋パン店」。店横の立て看板には「品質本位 どこより安ク賣ル店 毎月 廿七日 二割引パン特賣デー」と書かれています。幸手の歴史を伝える貴重な写真です。
日光街道の街並み|担景寺横町入口付近
日光街道(県道岩槻幸手線)を荒宿(あらじゅく)交差点方面に向かって歩きます。上の写真は担景寺横町(たんけいじよこちょう)入口付近です。永文商店
9時50分。永文商店(えいぶんしょうてん)に到着。埼玉県幸手市中1-7-27。創業明治36年(1903年)。老舗の酒屋で、大正から昭和にかけて建てられたという木造二階建ての看板建築が目を引きます。街道沿いに面する店舗の敷地は、うなぎの寝床と呼ばれる間口が狭くて奥行きの深い地割(じわり)になっているので、荷物を奥に運ぶのはひと苦労。そこで永文商店では荷物運搬用のトロッコが活躍してきました。今でも現役。横町鉄道の名で親しまれています。
トイレ休憩|勤労福祉会館
トイレ休憩で、問屋場横町沿いにある勤労福祉会館に寄りました。幸手市中3-1-35。天井に七つの鐘(幸せの鐘)が飾られたおしゃれな建物です。1階入口脇に、日光街道埼玉六宿スタンプラリーのスタンプ設置場所が設けられていました(幸手宿のスタンプ設置場所は勤労福祉会館のみ)
問屋場跡
勤労福祉会館の横にあるのは中央商店街ポケットパーク。宿場町時代、この場所には、人馬や人足の手配などの業務を行なっていた問屋場(といやば)がありました。問屋場跡の横の道は問屋場横町と呼ばれていますが、昭和50年ごろまでは、この場所に幸手警察署がありました。そのため地元では警察横町と呼んでいたそうです(ガイドさん談)竹村屋
幸手宿の日光街道沿いには、大正から昭和にかけて建てられた木造二階建ての看板建築の商家が10軒ほど残っています。上の写真は石炭商を営んでいた竹村屋。場所は中央商店街ポケットパークのはす向かい。建物は昭和初期の建築。幸手の歴史を今に伝える貴重な建築物のひとつです。本陣跡
竹村屋から50メートルほど先、旧日光街道・中一丁目交差点にあるのが幸手宿本陣跡(さってじゅくほんじんあと)。幸手宿の本陣を務めた知久家(ちくけ)があった場所です。現在は老舗うなぎ屋・義語家(ぎごや)。幸手市中1-8−16。本陣とは、江戸時代に大名などが宿泊するさいの旅宿(大名宿)のこと。知久家は、本陣だけではなく、問屋と名主も兼ねた幸手を代表する家柄でした。愛の妻路地
旧日光街道沿いの青木商店と大久保葬祭の間を抜けていく小路があります。ここは愛の妻路地(あいのつまろじ)。なんだか意味深というか艶やかな名前の路地ですね、と思いきや愛の妻路地とは、 本を開いて伏せたような二つの斜面からできている「切 妻 屋根(きりづまやね)の家が 路地 の両面から向かい 合 っていた」ので、愛の路地裏と呼ばれるようになったとガイドさんが教えてくれました。成田金物店|鬼瓦のからす
10時15分。成田金物店(なりたかなものてん)に到着。埼玉県幸手市中3-2-2。「屋根の上の鬼瓦(おにがわら)に注目してください」と、ガイドさん。鬼瓦に、トゲトゲしたひげ状の金具が五本ほど付いていています。これは「殺生釘」(せっしょうくぎ)とか「からす」と呼ばれ、魔除けや火除けの意味があるそうです。
妙観横町
成田金物店から旧日光街道を150メートルほど先、ローソン幸手中四丁目店とオカムラシューズの間を抜けていく細い小路があります(上の写真)。ここは妙観横町(みょうかんよこちょう)といいます。江戸時代、この道は、将軍が日光社参をするときに、日光街道が水害で通れなかったさいの回り道として造られた日光御廻道(にっこうおまわりみち))でした。ただし日光御廻道は日光社参で使われることはありませんでした。中野三允生誕の地
10時24分。明治から昭和にかけて活躍した幸手出身の俳人・中野三允(なかのさんいん)生誕の地碑に立ち寄りました。中野三允は薬剤師として家業の薬局を経営するかたわら正岡子規に俳句を学び、幸手のみならず埼玉県の俳壇(はいだん)発展に貢献しました。生誕の地碑の前にある中野薬局は中野三允生の生家です。幸手市中3-3-15(生家は非公開)浅間横町
旧日光街道から荒宿(あらじゅく)交差点を曲って浅間横町(せんげんよこちょう)に入ります。浅間横町から次の訪問先・浅間神社(せんげんじんじゃ)に向かいます。幸手宿には、浅間横町をはじめ妙観横町・愛の妻路地・問屋場横町・警察横町・担景寺横町など、昔ながらの通りの名前が残っているので、街歩きをしていても歴史を身近に感じることができます。浅間横町を歩いて浅間神社(せんげんじんじゃ)に向かいます。浅間神社
10時35分。浅間神社に着きました。幸手市北2-4-28。江戸末期・文久2年(1862)に、幸手宿の豪商・長嶋屋が建立したと伝えられています。現在の社殿は明治9年(1876)に再建したもの。富士山信仰に基づいた神社で、富士山本宮浅間大社の御祭神・木花開耶姫(このはなのさくやひめ)が祀られています。石太菓子店
「せっかく今日は幸手に来ていただいたので、幸手の名物を売っているお店を紹介しましょう」と、ガイドさんが案内してくれたのは、旧日光街道沿いにある石太菓子店(いしたかしてん)。幸手市北1-10-32。江戸末期・文久年間に創業した老舗の和菓子店です。店内は懐かしい和菓子屋さんの雰囲気。レジには五つ玉そろばんも置かれています。「何を買おうかしら」「迷っちゃう」。みなさん買いたい和菓子がたくさんあって、どれをお土産に買うか思案中。
私は、石太菓子店の名物菓子の塩がまと塩あんびんを買いました。塩がまは創業当時からの味をそのまま受け継いでいる電灯の和菓子で、明治9年(1876)に、明治天皇が東北巡幸のさいに、幸手宿に泊まったとき、塩がまを献上したそうです。
幸手一里塚跡碑
石太菓子店から次の訪問先・正福寺(しょうふくじ)に向かう途中、幸手一里塚跡碑(さっていちりづかあとひ)がありました。住所は幸手市北1-1-8地先。一里塚とは、日本橋を起点にして、日光街道の一里(4約キロ)ごとに置かれた塚で、江戸時代、旅人の目安となりました。幸手宿は日光街道から12里。日本橋から約48キロの場所になります。現在は幸手一里塚は残っていません。幸手にも一里塚があったことを伝えるために平成31年(2019)3月に石碑が造られました。正福寺
10時55分。正福寺(しょうふくじ)を訪れました。場所は幸手一里塚跡から50メートルほど先。幸手市北1-10-3。真言宗智山派のお寺で、本尊は不動明王。江戸時代は、檀林(だんりん)と呼ばれる僧侶の養成所も置かれていました。境内では、日光道中の道しるべや江戸中期・天明の大飢饉(てんめいのだいききん)のときに、幸手の豪商たちがお金や穀物を出し合って、地元の人々を飢えから救ったことを記念する義賑窮飢の碑(ぎしんきゅうがのひ)なども見ることができます。聖福寺
続いて訪ねたのは聖福寺(しょうふくじ)。幸手市北1-9-27。通称「しんてら」の名で親しまれています。浄土宗のお寺で本尊は阿弥陀如来。創建は約600年前の室町時代。徳川将軍家の休憩所としても使われ、勅使門(ちょくしもん)と呼ばれる山門は将軍だけが通行を許されました(上の写真は勅使門)幸宮神社
11時15分。幸宮神社(さちのみやじんじゃ)に着きました。幸手市中4-11-30。創建から400年を越える由緒ある神社で、幸手の総鎮守でもあります。江戸末期・文久3年(1963)に再建されたと伝えられる本殿には、龍や獅子など全面に見事な彫刻が施されています。現在、本殿は修復工事中なので、彫刻は見ることができません。ガイドさんの解説を聞いたあと、鳥居の前で拝殿に手を合わせました。裏通りの街並み
裏通りを歩きながら最終目的地の天神神社(てんじんじんじゃ)に向かいます。上の写真は幸手市中四丁目付近の街並みです。廃業している「金魚 飼育器具」と書かれたトタン造りのお店など、昭和を感じる建物が目につきます。天神神社
11時25分。最終目的地の天神神社に到着。幸手市中1-16-23。創建年代は未詳ですが、戦国時代、幸手を治めていた一色氏(いっしきし)によって建立されたと伝えられています。昔は裏町天神(うらまちてんじん)と呼ばれていました。解散|天神神社
11時30分。全行程を歩き終え、ガイドさんのあいさつのあと天神神社の鳥居下で解散。9時に幸手駅東口を出発し、歩いた時間は2時間半。「幸手宿 宿場あるき」は、ガイドさんの詳しい解説と、ガイドブックなどには載っていない秘話も聞くことができ、知られざる幸手の歴史や文化に触れることができました。関連記事
今回の幸手宿街歩きでは24箇所をめぐりました。紙面の都合で割愛した箇所もいくつかあります。またお寺は二軒、神社は五社訪れましたが、詳しく紹介すると記事があまりにも長くなってしまうので、お寺と神社については、下記の記事でお伝えしています。幸手市の名前が同じお寺・正福寺と聖福寺を訪れました。
幸手駅周辺の神社を巡りました。神明神社・浅間神社…他
上庄かふぇでランチ
幸手宿場町歩きに参加したあと、せっかく幸手まで来たんだから、お昼ごはんを食べて帰ろうと思い、先ほど見学した岸本家住宅主屋を改装した店内でカフェをやっている上庄かふぇで(うえしょうかふぇ)におじゃましました。時間は11時55分。ちょうどランチタイムの時間帯です。サラダとドリンクが付いたランチメニューの中からハヤシライスを注文しました。目玉焼きが載ったハヤシライスもアイスコーヒーも美味しくいただきました。幸手宿。宿場町の街並みが随所に残っていて、歴史を感じる、いい街でした。次回は「幸手宿 宿場あるき~幸手駅西口コース~」に参加させていただこうと思います。
幸手宿「宿場あるき」幸手駅西口コースに参加しました。