粕壁宿の寺町を歩くツアーで春日部観光スポットを巡りました。

2019年10月20日・日曜日。春日部観光ボランティアの会による粕壁宿の寺町を歩くツアーに参加しました。春日部情報発信館ぷらっとかすかべを起点に、粕壁神明社・玉蔵院・妙楽院・成就院・最勝院・春日部重行公の塚・新町橋・上喜蔵河岸跡・高札場跡・浜島家住宅土蔵・永島庄兵衛商店・問屋場跡・山中千手観音堂など、春日部観光スポットを巡ってきました。

 

日光道中粕壁宿めぐり|2019年10月20日

日光道中粕壁宿めぐり(2019年10月20日) 今回、私が参加したのは日光道中・粕壁宿を巡る街歩きツアー「宿場町・粕壁と寺町を歩く」(主催・春日部観光ボランティアの会)。参加費は無料。訪れた箇所は10箇所。ガイドさんとともに約2時間かけて歩いた粕壁宿の街並みの様子を写真を交えてお伝えします。

集合・出発|ぷらっとかすかべ

春日部情報発信館ぷらっとかすかべ 集合時間は午前9時30分。集合場所は、春日部駅東口から徒歩3分のところにある春日部情報発信館ぷらっとかすかべ。参加人数は13人。春日部観光ボランティアの会のガイドさんが3人。観光協会のスタッフも二名同行。ガイドさんの紹介が行なわれ、9時40分スタート

粕壁神明社|神明神社

粕壁神明社 最初に訪れたのは粕壁神明社(かすかべしんめいしゃ)。通称・神明神社(しんめいじんじゃ)。春日部市粕壁1-8。宿場の守り神として信仰されてきた神社です。江戸中期・天明年間(1781~1789)に、地元の豪族が竹やぶの中の土中から厨子(ずし)に入った御神体と鏡が出てきたので、祠を建てて祀ったのが始まりと伝えられています。

神明神社 もともとは別の場所(現在のぷらっとかすかべの当たり)にありましたが、道路の整備により現在の場所に移されました。拝殿前の石灯籠は江戸後期・文政3年(1820)の造立。境内には三峯神社も祀られています。12月14日の酉の市(新穀感謝祭)では、露店が並び、多くの参拝者で夜遅くまでにぎわいます。

玉蔵院

玉蔵院|山門 10時。玉蔵院(ぎょくぞういん)着。春日部市粕壁3-1-12。真言宗智山派のお寺で、室町時代(南北朝時代)延元元年(1336)創建と伝えられています。ご本尊は千手観音。

本堂でご住職と愛犬のミニチュアダックスフンドが出迎えてくれました。

六地蔵と青面金剛庚申塔 境内では六地蔵と青面金剛像庚申塔(しょうめんこんごうぞうこうしんとう)も見られます。六地蔵は江戸中期・享保年間(1716~1736)に造立されたと言われているので、春日部市内でもかなり古いものです。

続いて妙楽院(みょうらくいん)に向かいます。このあたりは寺町というだけあって玉蔵院から200メートル以内の範囲にお寺が五軒建っています。

妙楽院

妙楽院 10時10分。妙楽院に着きました。住所は埼玉県春日部市粕壁3-4-38。真言宗智山派の寺院で本尊は地蔵菩薩立像。山号は月光山(がっこうざん)。江戸前期・慶長12年(1607)の開山と伝えられています。本堂前には六地蔵が配されています。

不動明王立像 参道の木陰に不動明王立像が建てられています。右手に三鈷剣(さんこけん)、左手に羂索(けんさく)を持って岩座(いわざ)の上に立っています。造立年月は確認できませんでしたが、江戸時代のものと思われます。

地蔵菩薩像付き供養塔 墓地の一画にある地蔵堂の横に地蔵菩薩像が載っている供養塔があります。地蔵菩薩像付き供養塔というのは珍しい石塔です。造立は江戸中期・享保17年(1732)

供養塔には「亨保十七年壬子歳 奉納大乗妙典供養 二月吉祥日」と彫られています。読み方は、亨保(きょうほう)17年・壬子歳(みずのえねどし)奉納大乗妙典供養(ほうのう だいじょうみょうてん くよう)二月吉祥日(にがつ きちじょうにち)

「奉納大乗妙典供養」とは、仏の世界に導いてくれるお経(大乗妙典)をもって亡くなった人の魂を供養するために(この供養塔を)奉納する、というような意味になります。

成就院

成就院 続いて訪れたのは、トイレ休憩地点でもある成就院(じょうじゅいん)。春日部市粕壁3-9-28。入口の仁王門では仁王像がにらみをきかせています。仁王門は新しく建てられたもので、平成8年(1966)建立です。

成就院 成就院の名称は正確には「愛宕山成就院大日寺」(あたござん じょうじゅいん だいにちでら)。真言宗智山派の寺院で、ご本尊は大日如来(だいにちにょらい)。開山は約1,200年前(平安時代)と伝えられています。

七福神|成就院 本堂の脇に七福神の石像が並んでいます。左から弁財天(べんざいてん)福禄寿(ふくろくじゅ)毘沙門天(びしゃもんてん)福禄寿(ふくろくじゅ)恵比寿天(えびすてん)大黒天(だいこくてん)袋尊(ほていそん)

七福神|成就院 ガイドさんがクイズを出しました。「七福神の中で唯一、日本の神様がいます。どなたでしょうか?」。数秒間沈黙が流れたあと、ツアー参加者の中のひとりの男性が答えました。「恵比寿様」。ガイドさん「正解です」。参加者全員拍手。

見川喜蔵墓及び見川家五輪塔

見川喜蔵墓及び見川家五輪塔 本堂の裏手にある墓地の一画に、粕壁宿の発展に貢献した見川喜蔵(みかわきぞう)のお墓があります。生没年は江戸中期・元文3年から文化2年(1738-1805)。見川喜蔵は粕壁宿の役人を務めた人物で窮民救済にも尽力した粕壁宿の偉人です。

上の写真の右側が見川喜蔵の墓。左は、見川家代々の当主を供養する墓である五輪塔(ごりんとう)です。墓と五輪塔は「見川喜蔵墓及び見川家五輪塔」の名で、春日部市の有形文化財に登録されています。

最勝院

最勝院|山門 10時35分。最勝院(さいしょういん)に到着。華林山慈恩寺(かりんざんじおんじ)と号す真言宗智山派のお寺です。春日部市粕壁3-9-20。本尊は千手観音立像。

最勝院|境内 山門をくぐると広大な境内が広がります。明治時代には、小学校が開設されたり、相撲やサーカスのほか芝居や武道大会などの興行も行なわれたそうです。

御朱印 徳川家と縁が深いお寺で、徳川三代将軍・家光をはじめ九代の将軍から発行された朱印状(9通)が、寺に保存されています。ガイドさんが朱印のコピーを見せてくださいました。また、家光の遺骸(いがい)を日光山に運ぶときに、最勝院で一時(遺骸を)安置していたそうです。

春日部重行公御霊古墳

鳥居 最勝院の墓地の裏手(本堂の西側)に、南北朝時代に春日部を治めた武将・春日部重行(かすかべしげゆき)の墓と伝えられている塚があります。本堂の横から塚に向かう参道に鳥居が建っています。お寺なのにどうして鳥居が建っているのか? 春日部重行公を神様として祀るという意味を込めて、後年、この土地の人たちが建てたそうです。

春日部重行公御霊古墳 こちら(上の写真)が、春日部重行公の墓と言われている塚です。春日部重行公御霊古墳(かすかべしげゆきこうみたまこふん)。墓石には「従四位市祖春日部重行公之墳墓」(じゅうしい しそ かすかべしげゆきこうのふんぼ)と彫られています。古墳の上では樹齢600年とも700年とも言われるシイの巨木が墳墓を守っています。

かすかべ大通り|旧日光道中

かすかべ大通り|旧日光道中 10時55分。最勝院を出ました。最勝院の山門は、かすかべ大通り(旧日光道中=旧日光街道)に面して建っています。上の写真は山門から見た、かすかべ大通り(旧日光道中)の風景。明治中期、千住(足立区)と春日部を結ぶ千住馬車鉄道の終点が最勝院でした。馬車鉄道とは線路の上を走る客車を馬に引かせる乗り物。運賃は高額だったので一般庶民はなかなか乗れなかったそうです。

春日部と粕壁、どっちが古い?

「春日部」と「粕壁」。「かすかべ」は二つの漢字表記がありますが、「粕壁」のほうが古いと思いきや「春日部」のほうが古いそうです。はじめて「かすかべ」の地名が古文書に登場するのは、14世紀の南北朝時代。そのときは「春日部」でした。

15世紀末から16世紀末の戦国時代になると「糟ヶ邊」「糟壁」「糟ヶ辺」になり、18世紀・江戸時代に入って「粕壁」に定着したというのが定説になっています。そして、昭和19年(1934)に粕壁町と内牧村が合併して「春日部(町)」になりました。

現在は、一部、地名に「春日部市粕壁」「春日部市粕壁東」という漢字表記が残っていますが、市全域を指すときは「春日部」「春日部市」を使い、旧日光街道沿いの街並みを指す場合は「粕壁宿」というように使い分けられています。

古隅田川と古利根川の合流地点

古隅田川と古利根川の合流地点 最勝院でツアー前半の寺町めぐりが終了。後半は春日部の史跡めぐりに向かいます。最勝院をあとに、古利根川の右岸側に出ると、二つの川が合流している地点がありました。上の写真、手前を流れているのが古隅田川(ふるすみだがわ)、向こうを流れているのが大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)。この地点が古隅田川の最終地点になります。

 

新町橋

新町橋 11時。古隅田川と古利根川の合流地点から古利根川の右岸を100メートルほと進むと、旧日光街道に架かっている新町橋(しんまちばし)に出ます。新町橋は江戸時代初期に春日部で初めて架けられた橋で、大橋(おおはし)と呼ばれる板で作った橋(板橋)でした。現在の新町橋は平成17年(2005)3月に架けられたものです。

上喜蔵河岸跡

上喜蔵河岸跡模型(コピー図) 江戸時代、大落古利根川沿いにあった粕壁宿は、川や運河で船によって物資や旅客を運搬する舟運(しゅううん)の拠点として栄えました。現在の新町橋(大橋)上流側下には上喜蔵河岸(かみきぞうかし)と呼ばれる船着場があったとのこと。ガイドさんが春日部郷土資料館に展示されている上喜蔵河岸跡の推定模型のコピーを見せてくれました。

喜蔵河岸跡(石積み) 上喜蔵河岸跡(かみきぞうかしあと)には船着場の名残である石積みがわずかに残っています(上の写真)。場所は、古利根川右岸側(新町橋のたもと)。旭町集会所(春日部市粕壁3-10-43)の敷地脇です。当時の河岸の様子を伝える貴重な史跡といえます。

高札場跡

高札場跡 11時10分。かすかべ大通りの新町橋(西)信号下の高札場跡(こうさつばあと)に到着。江戸時代、この場所は、日光道中(日光街道)が分岐する三差路で、幕府や領主が決めた法令を書き記した高札(掲示板)が設置されていました。

浜島家住宅土蔵

浜島家住宅土蔵 高札場跡の対面(新町橋(西)信号脇)に黒塗りの土蔵があります。この蔵は、江戸後期(17世紀後半)から「佐渡屋」(さどや)の屋号で戦前まで米穀商(べいこくしょう)を営んでいた浜島家(はまじまけ)の土蔵です(現在は個人宅)。明治時代の前期に建てられたと言われている浜島家の土蔵は、浜島家住宅土蔵(はまじまけじゅうたくどぞう)の名で、国の有形文化財(建造物)にも指定されています。

永嶋庄兵衛商店

永嶋庄兵衛商店 浜島家住宅土蔵から、かすかべ大通りを50メートルほど歩くと、永嶋庄兵衛商店(ながしましょうべえしょうてん)があります。埼玉県春日部市粕壁2-8-14。江戸初期・慶長年間から400年以上続いている米穀問屋です。店のたたずまいは、宿場町としてにぎわっていた当時の歴史を今に伝えているかのようです。
鍾馗様 屋根の上には魔除けの神様・鍾馗様(しょうきさま)がいます。

問屋場跡

問屋場跡 11時20分。続いて向かったのは問屋場跡(といやばあと)。永嶋庄兵衛商店の約50メートル先です。埼玉りそな銀行春日部支店の前です。問屋場とは、江戸時代、宿場で人が乗る馬や人足(にんそく)の手配などの業務を行なっていた施設です。

案内板|問屋場跡 問屋場跡の案内板には当時(江戸後期)の問屋場周辺の様子を示す絵図(五街道其他延絵図・日光道)が載っています。

山中千手観音堂

山中千手観音堂

11時30分。ツアー最後の訪問地・山中千手観音堂(やまなかせんじゅかんのんどう)に到着。春日部市粕壁1-5-11。この地で一生を終えた江戸時代中期の俳諧師(はいかいし)増田眠牛(ますだみんぎゅう)の菩提を弔うために建てられたお堂です。以前は別の場所にありましたが、春日部駅東口開発により現在の場所に移されました。

厨子|山中千手観音堂 観音堂には千手観音が祀られています。眠牛を慕う地元の人々から家内安全の観音様として信仰を集めました。大正時代までは縁日も開かれていたそうです。

増田眠牛の墓石 境内には増田眠牛の墓石も見られます。

帰路

帰路 11時35分。山中千手観音堂の見学を終え帰路へ。右前方に、ぷらっとかすかべの建物が見えてきました。

帰着・解散|ぷらっとかすかべ

ぷらっとかすかべ 11時40分。ぷらっとかすかべに帰着。ガイドさんのあいさつのあと解散。歩いた時間はちょうど2時間。日光道中・粕壁宿の寺町を歩くツアーは、ガイドさんの奥深い解説もあって、春日部の知られざる歴史に触れることができました。

日光道中粕壁宿めぐりの資料と記念品 data-recalc-dims= 記念品として桐材で作った羽子板型携帯ストラップと楊子袋をいただきました。楊子袋は春日部観光ボランティアの会のみなさんが手作りしたもの。ありがとうございました。

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日光道中粕壁宿めぐり

春日部市観光協会では、かすかべ案内人の会と春日部観光ボランティアの会が主催するガイドツアー(日光道中粕壁宿めぐり)を行なっています。参加料金は無料。コースや詳細につきましては春日部情報発信館「ぷらっとかすかべ」にお問い合わせください。電話番号は 048-752-9090 。受付時間は午前9時から午後4時半。休館日は月曜日(祝日の場合は翌日以降の平日)。住所は埼玉県春日部市粕壁1-3-4。春日部駅東口を直進、徒歩3分です。駐車場はありません。
 

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