2020年1月30日。越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部主催の巡検に参加。東武伊勢崎線・蒲生駅西口を起点に、出羽堀・七左一の橋にある青面金剛像庚申塔をはじめ報土院の開山塔・地蔵菩薩像・薬師三尊と十二神将、登戸稲荷神社の文字庚申塔、旧日光街道・新越谷駅入口信号脇にある馬頭観音像付き十九夜塔など、越谷市登戸町(のぼりとちょう)周辺にある石仏や寺社・旧家などを約3時間半かけて巡ってきました。
地誌研究倶楽部 巡検|2020年1月30日
今回、私が参加したのは、越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部が主催する巡検「登戸地区の石仏と歴史」(令和2年1月30日・木曜日)。見学した場所は16箇所。越谷市登戸町周辺の知られざる歴史に触れながら歩いた様子を写真を交えてお伝えします。集合|蒲生駅西口
集合場所は東武伊勢崎線・蒲生駅西口。参加人数は39人。今回は、多摩石仏の会・御厨(みくりや)氏も特別参加。案内役・越谷市郷土研究会の加藤幸一氏と地誌研究倶楽部の代表・秦野秀明氏のあいさつのあと、巡回コースを確認して、13時30分、出発。七左一の橋|出羽堀
蒲生駅西口前の通りを西へ直進。300メートルほど歩くと、南北に流れる出羽堀にぶつかり、左岸に沿って北へ250メートルほど進むと、出羽堀に架かる七左一の橋(しちざいちのはし)に出ました。上の写真は七左一の橋から出羽堀(上流)を眺めた景色です。このあたり(蒲生茜町周辺)は、旧登戸村の飛地(とびち)で、登戸村の本村(登戸本田=のぼりとほんでん)に対して、登戸新田(のぼりとしんでん)と呼ばれていた、ということを案内役の加藤氏が蒲生地区の地形図を使いながら解説してくれました。
青面金剛像庚申塔|七左一の橋
七左一の橋の東詰そば角地に、祠が建っていて、中に青面金剛像庚申塔が置かれています(越谷市蒲生茜町40-1)。祠にはお花が供えられていて、今でも地元の人たちに崇められているのが分かります。駒形の庚申塔で、造立は、江戸後期・寛政2年(1790)。正面に、六臂(ろっぴ=手が六本)の青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が浮き彫りされています。中手は合掌。左上手に宝輪、左下手に弓、右上手に三叉鉾(さんさぼこ)、右下手に弓を持っています。最上部に日月、足元に一匹の邪鬼、邪鬼の両横に鶏、最下部に三猿が彫られています。
トイレ休憩|ファミリーマート南越谷一丁目南店
14時10分。七左一の橋から東へ300メートル。東武伊勢崎線の高架下にあるファミリーマート南越谷一丁目南店(越谷市南越谷1-6-76)で、20分間のトイレ休憩。明治天皇田植御覧の処碑
14時40分。ファミリーマート南越谷一丁目南店をあとに東武伊勢崎線の高架下を新越谷駅方面に200メートルほど歩いて、右に曲って旧日光街道(埼玉県道49号足立越谷線)に出ました。右手の道路沿いに、ちょっとした庭園のような敷地があり、奥に石碑が並んでいます(越谷市南越谷1-5)向かっていちばん左の石碑は、明治天皇田植御覧の処碑(めいじてんのうたうえごらんのところひ)。明治天皇が、明治9年(1876)に、この地(蒲生)で田植えの様子をご覧になったことを記念して、昭和31年(1956)に建てられた記念碑で、明治天皇田植御覧之處(めいじてんのうたうえごらんのところ)と彫られています。
日光道中と日光街道(日光海道)
明治天皇田植御覧の処碑をあとに旧日光街道(県道足立越谷線)下り線沿いの歩道を南に向かって歩きます(上の写真は、県道足立越谷線・越谷市南越谷一丁目付近の風景)。案内役の加藤氏から日光街道と日光道中についての解説がありました。「現在『日光街道』と呼ばれている道は、昔は、日光へ向かう海の道『日光海道』(にっこうかいどう)と書かれていました。その後、江戸幕府は『日光道中』(にっこうどうちゅう)という正式な呼び名を決めますが、地元では『にっこうかいどう』と呼ばれ、漢字も海の道『日光海道』が使われていました。その後、江戸時代後期の文化文政年間には、『海』が『街』に変わって『日光街道』と書かれるようになりました」(加藤氏談)
道路堤防橋梁の制
案内役の秦野氏からは「江戸時代、街道の両脇に、道路に沿って排水路(用水)を造ることが、道路堤防橋梁の制(どうろていぼうきょうりょうのせい)という法律で義務づけられていた。江戸時代の絵図や古文書を見ると、日光道中の両脇に、谷古田用水(やこたようすい)と西堀(にしぼり)が流れていたことが分かる」という説明がありました。浜野家の構堀跡と屋敷神
14時55分。旧日光街道(県道足立越谷線・下り線側)南越谷一丁目の信号を左折して東に200メートルほど歩いて、四番目の訪問先、登戸村の旧家・浜野家に到着(越谷市登戸町)。今回は、特別に許可を得て、敷地内に立ち寄らせていただけました(個人宅ですので敷地内の写真は割愛)。二十代以上続く名家とあってお庭も立派です。構堀跡
屋敷を囲むように、塀に沿って道が通っていますが、この道は、構堀(かまえぼり)と呼ばれるお堀の跡です。昔は、名主などの屋敷は、お堀で囲まれていることが多く、浜野家のお屋敷も構堀で囲まれていました。正門の手前には、石橋が架かっていたそうです。屋敷神|稲荷神社
屋敷の裏手には屋敷神のお稲荷様が祀られています(上の写真の赤いお社)道標付き文字庚申塔|浜野家角地
浜野家の角地(西側路傍)に庚申塔が置かれています(越谷市登戸町26)。江戸末期・万延元年(1860)造立。頭部山伏角柱型の道標付き庚申塔です。正面に「庚申」と刻まれ、上部に日月が彫られています。台石(だいいし)には、世話人と、女人講(にょにんこう)の講員12名の名前が刻まれています。右側面には「ふどう道」(ふどうみち)と彫られ、左上に指の矢印( ☞ )が刻まれています。
ふどうみち(不動道)とは、越谷市相模町にある大相模不動尊(大聖寺)に通じる道のこと。かつて越谷市には、何本もの不動道がありました。この道しるべに刻まれている「ふどう道」の意味は、この先(この指先の方向)に進むと(大相模不動尊)に通じる不動道(ふどうみち)にぶつかります、という道案内です。
登戸会館|火の見櫓跡と天神様お堂跡
15時15分。6番目に訪れたのは、自治会館の登戸会館(越谷市登戸町)。浜野家の東側・四つ角にあります。登戸会館の向かって左側(現在は駐車場になっている場所)に、昭和40年代ぐらいまで、火の見櫓が建っていました。火の見櫓が建っていたということは、この場所が村(登戸村)の中心だったということになります。また、道路を隔てた登戸会館の前の空き地には、天神様のお堂がありましたが、現在、天神様の祠は、北40メートルほど先の民家の敷地に再建されています。
移転された天神様の祠
移転された天神様が上の写真です。祠は再建されたもの。祠の中には、菅原道真公の座像が祀られています。関根家|登戸村名主
登戸会館から東へ50メートルほど歩くと、右手にお屋敷が見えてきました。江戸時代に、登戸村の名主を務めた関根家のお屋敷です。「関根家のご先祖様は、豊臣方の武将の家老をしていて、関ヶ原の合戦で、負けた主君の若様を抱いて落ち延びた先(山形県米沢の手前)が関根という地で、それまでの名字を改めて関根とし、その後、この場所に居をかまえた」という話を、案内役の加藤氏が、関根家の家族の方に取材したときに聞いた逸話として、教えてくれました。構堀跡|関根家
先ほど訪ねた浜野家と同じように、関根家のお屋敷のまわり(垣根や外壁の脇)にも、屋敷を取り囲むように構堀(かまえぼり)の跡が残っています。案内役の加藤氏から「屋敷の周囲に構堀があるということは(関根家の祖先が)もと武士であった名残を伝えます。おそらく防御のために、堀だけではなく土塁も周囲に築かれていたと推測できます」との説明がありました。関根家と報土院
関根家の塀沿いに沿って歩いていくと、次の訪問先、浄土宗のお寺・報土院(ほうどいん)に着きました(上の写真の左側が報土院で右側が関根家)。関根家と報土院の関係は深く、「江戸前期・元禄年間(1688年~1704年)に報土院が焼失しとき、関根家が再興したと伝えられています。報土院に保存されている元禄10年(1697年)の過去帳に記載されている当時の関根家・当主の戒名に『院号』がついていることから、関根家が報土院に過大な貢献をしたことの裏付けになります」(案内役の加藤氏談)報土院
15時40分。9番目の訪問先、報土院(ほうどいん)に到着(埼玉県越谷市登戸町20-28)。山門をくぐると住職が出迎えてくださいました。創建の年代は不詳ですが、安土桃山時代の創建と伝えられています。本尊は阿弥陀如来。今日は、住職の特別なはからいで、地蔵堂と薬師堂の中も見せていただけることになりました。地蔵堂
まずは地蔵堂を見学。お堂は境内の外(山門に向かって左手)にあります。地蔵堂には地蔵菩薩の石仏が安置されています。造立は江戸前期・宝永7年(1711)造立。左手に宝珠(ほうじゅ)、右手に錫杖(しゃくじょう)を持っています。
薬師堂
続いて薬師堂へ。山門をくぐって右手にあります。薬師三尊(やくしさんぞん)と、薬師十二神将(やくしじゅうにしんしょう)が安置されています。中央に金色の薬師三尊。中尊が阿弥陀如来、中尊から見て左が日光菩薩で、右が月光菩薩(がっこうぼさつ)。薬師三尊の両脇に安置されているのが薬師十二神将(やくしじゅうにしんしょう)。薬師十二神将は薬師如来を護る神々で、十二支の守り神としても割り当てられています。
開山塔
薬師堂の隣にあるのは開山塔(かいざんとう)。開山塔とは、お寺を開山した僧(開祖=かいそ)の墓に建ててある石塔です。正面中央の石塔(頭部山伏角柱型)が、法土寺を開山した善教(ぜんきょう)大和尚の開山塔。造立は江戸前期・寛永4年(1751)。正面に、心蓮社三誉聞秀上人大善教大和尚と刻まれています。ちなみに善教大和尚は、安土桃山時代の天正10年(1582)10月15日に亡くなっています。
石仏
境内の六地蔵の裏手には江戸時代に造立された5基の石仏が並んでいます(上の写真)。右の二基は青面金剛庚申塔、中央は馬頭観音像、左から二番目は馬頭観音文字塔、左端は梵字のキリークが刻まれた板碑(いたび)です。そのほか、報土院の境内には、百八十八箇所巡礼塔や羅漢像なども見られます。不動道と鷹番跡地
報土院を出て右へ。報土院の前の細い道は古道で、越谷市相模町にある大相模不動尊(大聖寺)に通じる不動道(ふどうみち)です。鷹番
産業道路(埼玉県道115号越谷八潮線)にぶつかる手前に「鷹番」(たかばん)という屋号のお宅があります。案内役の秦野氏から次のような解説がありました。「江戸時代、江戸近郊には、将軍が鷹狩りを行なう鷹場(たかば)がありました。鷹場のある地域には、鷹場の密猟者を昼夜にわたって取り締まる鷹番小屋が設置され、鷹番と呼ばれる番人が常駐していました。越谷にも大沢町に鷹番小屋が設置されていた記録が残っているので、この家は、屋号が『たかばん』となっていることから、登戸村にも鷹番小屋をやっていた家があったのかもしれません」
道標付き文字庚申塔|産業道路・相生陸橋下
続いて、産業道路(埼玉県道115号越谷八潮線)・相生陸橋下にある道標付き文字庚申塔を訪ねました。場所は、登戸宮前通りと産業道路の交差点南西角地です(上の写真)造立は、江戸後期・文政10年(1827)。正面上部に梵字・ウーン。中央に青面金剛と刻まれています。台石(だいいし)正面に三猿が刻まれ、左側面に「是ヨリ大さかミ道」、右側面に「是より日光道中こしがや」とあります。案内役の加藤氏によると「この庚申塔は、かつては、先ほど訪れた関根家(登戸村の名主)前の不動道に置かれていた」そうです。
文字庚申塔|登戸稲荷神社
16時20分。11番目に訪れたのは登戸稲荷神社(のぼりといなりじんじゃ)。住所は越谷市登戸町5-8。16世紀末から17世紀初頭(安土桃山時代から江戸時代にかけての)慶長年間の創建と伝えられ、江戸時代は登戸村の鎮守でした。一の鳥居脇を正面に見て手前の敷地脇に祠(ほこら)があり、中に庚申塔が置かれています。頭部山伏角型の文字庚申塔で、造立は、江戸後期・寛政11年(1799)。正面の上部に日月、中央に「青面金剛」と刻まれ、下に三猿が彫られています。
登戸宮前通り
16時25分。登戸稲荷神社をあとに、登戸宮前通りを西へ進んで、旧日光街道(新越谷駅入口)方面へ。正面の左手に、銭湯「登龍湯」(とうりゅうゆ)の看板が見えます。三軒屋跡
登戸宮前通りを旧日光街道方面に進んで、群馬銀行越谷支店手前の信号を右折。150メートルほど歩くと、左手に、暗渠(あんきょ)と呼ばれる用水路跡に蓋をした小路があります(上の写真)。暗渠を進むと旧日光街道(埼玉県道49号足立越谷線)にぶつかり、前方に総合アミューズメント施設・南越谷ラクーン(RAKUUN)が見えます。江戸時代、このあたり一帯(越谷市南越谷一丁目の北部近辺)は、田んぼで、「三軒屋」(さんげんや)と呼ばれていました。案内役の加藤氏から「江戸時代、日光街道沿いのこのあたりに立場(たてば)と呼ばれる休憩所があったので、立場の近くに三軒の茶屋があったことから三軒屋という地名になったのではないか」という説明がありました。また「田んぼだけの土地に三軒しか家がなかったから三軒屋という地名になった、という説も考えられる」とのことでした。
馬頭観音像付き十九夜塔|新越谷駅入口
14番目に訪れたのは、旧日光街道(足立越谷線)新越谷駅入口信号脇(上り線沿い)角地にある馬頭観音像付き十九夜塔(ばとうかんのんぞうつきじゅうくやとう)。源氏総本店・南越谷店の入口付近です(埼玉県越谷市南越谷1丁目)江戸後期・天宝5年(1834)に造立された駒形の十九夜塔で、正面に馬頭観音坐像が浮き彫りされていて、右側面に「十九夜塔」(じゅうくやとう)と刻まれています。台石には「越谷宿 大沢宿 馬差 帳附 中」とあります。
馬差(うまさし)とは、江戸時代、宿場で人馬の準備や仕事を手配した役人のこと。帳附(ちょうつけ)とは、それを帳簿に記帳した役人のこと。案内役の加藤氏の話では「馬頭観音像と台石は、もともとは別のものであった」そうです。
日光道中と不動道との分れ道
16時50分。武蔵野線のガード下をくぐって、旧日光街道を北に50メートルほど進むと、T字路にぶつかりました。この場所は、江戸時代、日光道中(日光街道)と大相模不動尊に通じる不動道(ふどうみち)との分れ道でした。不動道は西方村(にしかたむら)と登戸村(のぼりとむら)の村境でもあり、不動道の北側が西方村、南側が登戸村、日光道中の西側が瓦曽根村(かわらぞねむら)でした。案内役の秦野氏から「かつては、この場所(日光道中と不動道との分れ道)に道標(みちしるべ)がありましたが、現在は(その道標は)大聖寺(大相模不動尊)の境内に移されている」とのお話がありました。道標のあった場所(日光道中と不動道の分岐点)から大相模不動尊までの距離はおよそ2キロですので、当時の尺度でいえば約半里(はんり)といったところでしょうか。
帰路
日光道中と不動道との分れ道をあとに、旧日光街道を渡って、最終地点の新越谷駅西口へと向かいます。時間は午後5時。日も暮れ、お店の外観や看板に明りが灯されはじめました。旧蒲生駅跡
17時5分。16番目、最後の訪問先の東武伊勢崎線・新越谷駅西口ロータリーに到着。東武伊勢崎線が、明治32年(1899)に開業したときは、ここは蒲生駅(蒲生駅停車場)でした。現在でも屋号が「停車場」というお宅が残っています。その後、蒲生駅は、明治41年(1908)に現在の場所に移転しました。ちなみに新越谷駅は、昭和49年(1974)開業。終着・解散|新越谷駅西口
17時10分。新越谷駅西口・階段脇に移動。案内役を務めた越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部の秦野・加藤氏のあいさつのあと解散。関連記事|越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部の巡検
越谷市瓦曽根の石仏と歴史めぐり|瓦曽根溜井・照蓮院…他越谷市増森の石仏や神社と河川を巡りました。
越谷市中島の庚申塔や寺社と河川を巡検
越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部の巡検「越谷市内登戸地区の石仏と歴史」。奥深い解説で、越谷市登戸地区周辺の知られざる歴史に触れることができました。中でもふだんは、なかなか見ることができない報土院の薬師堂と地蔵堂の本尊や立ち入ることのできない旧家を見学できたことは、たいへん勉強になりました。