越谷市増森と吉川市川藤の石仏と河川跡などを巡ってきました。

2019年12月15日・日曜日。越谷市郷土研究会の史跡めぐりに参加しました。増林地区センター・公民館を起点に、せきの渡し跡・大泉院跡・宝性寺・榎戸の渡し跡・せいヶ渕跡・宝正院・薬師堂の山王廿一仏板碑・増森神社など、埼玉県越谷市増森(ましもり)地区と吉川市川藤(かわふじ)地区の石仏をはじめ史跡や河川跡などを約3時間かけて巡ってきました。

 

越谷市郷土研究会 史跡めぐり|2019年12月15日

越谷市郷土研究会の史跡めぐり 今回、私が参加したのは、第505回 越谷市郷土研究会 史跡めぐり「大河の跡を訪ねて~増森・川藤」(2019年12月15日・日曜日)。巡った場所は9箇所。越谷市増森地区と吉川市川藤地区の知られざる歴史に触れながら歩いた様子を写真を交えてお伝えします。

集合|越谷駅東口

越谷駅東口 集合場所は東武伊勢崎線・越谷駅東口ガーヤちゃんの蔵屋敷前。参加人数は54人。26人ずつ2班に分かれ、各班ごとに案内者が付きました。越谷市郷土研究会の会長と案内者二人のあいさつのあと、午前8時20分のバスに乗って出発地点の増林地区センターへ

起点・出発|増林地区センター

増林地区センター 8時35分、増林地区センター着。各班ごとに分かれ、9時5分出発。

せきの渡し跡

新ましもり橋北 最初に向かったのは、平方東京線と東埼玉道路が交わる「新ましもり橋北」交差点。増林地区センター前の道を東南に約600メートルほど進んだ地点です。今は面影は残っていませんが、かつてここは古利根川(ふるとねがわ)が流れていました。

古利根川跡 古利根川右岸側(写真の手前)は、旧埼玉郡(さいたまぐん)新方領(にいがたりょう)増森村(ましもりむら)で、現在の越谷市。左岸側(写真の向こう)は、旧葛飾郡(かつしかぐん)二郷半領(にごうはんりょう)須賀村(すかむら)で、現在の吉川市。増森村(越谷市)はかつての武蔵国(むさしのくに)で、須賀村(吉川市)はかつての下総国(しもうさのくに)ですので、古利根川が国境(くにざかい)になっていました。

せきの渡し跡 当時、この場所(「新ましもり橋北」交差点付近)に、増森村(現・越谷市増森)と須賀村(現・吉川市川藤)とを結ぶ「せきの渡し」(せき舟の渡し)と呼ばれる古利根川の渡し場があったとことをガイドさんが地図を使って解説してくれました。

大泉院跡

大泉院跡 せきの渡し跡(新ましもり橋北交差点)から東埼玉道路を北に500メートルほど歩き、次に向かったのは、大泉院跡(だいせんいんあと)。旧葛飾郡(かつしかぐん)松伏領(まつぶしりょう)川藤村(かわふじむら)。現在の埼玉県吉川市川藤。大きな松の木か二本見えます。かつてここは江戸時代まで大泉院(だいせんいん)という山伏(やまぶし)の修験(しゅげん)寺院でした。

先祖代々の墓 現在は当時の子孫の個人宅になっていますが、今回、特別に敷地内にある先祖代々の墓や石仏などを見せていただくことができました。自宅には大泉院当時の古文書も残っているそうです。

墓石 墓所の中央に「先祖代々霊神塔」が置かれ、周囲には、如意輪観音・地蔵菩薩・馬頭観音・釈迦如来などが彫られた江戸時代の墓石や五輪塔が並べられ、側面に「大泉院」と刻まれている石碑や墓石も見られます。貴重な史蹟を見学することができました。

宝性寺

宝性寺 9時55分。三番目に訪ねたのは、大泉院跡から北東200メートルほどの所にある宝性寺(ほうしょうじ)。住所は埼玉県吉川市川藤400。旧葛飾郡(かつしかぐん)松伏領(まつぶしりょう)川藤村(かわふじむら)。江戸後期に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』によると、新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)のお寺で、開山は、安土桃山時代の天正2年(1574)。本尊は運慶作・虚空蔵(こくうぞう)とあります。

供養塔 境内では、江戸初期に造立された青面金剛像庚申塔や日本廻国供養塔などの石仏や供養塔も数多く見られます。

『新編武蔵風土記稿』に「川藤村は、八郷下河邊庄(はちごうしもこうべのしょう)に属す」「小名(こな)榎戸(えのきど)」とあります。小名とは村を小分けした名で、現在の「大字」(おおあざ)「字」(あざ)のことですので、このあたりは「榎戸」(榎戸村)と呼ばれていました。

それを裏付けるように「下総国葛飾郡川辺荘榎戸村」「下総国葛飾郡河邊荘八郷之内榎戸村」などと刻まれた石仏が見られます。上の写真の銘文には「榎戸村 寳生寺」と刻まれています。寳生寺は宝性寺のこと。

阿弥陀三尊種子板碑 宝性寺の石仏の中でもっとも古いのは、鎌倉末期・元徳3年(1331)に造立された「阿弥陀三尊種子板碑」(あみださんぞんしゅじいたび)。下の部分は欠けてしまってコンクリートで固められていますが、688年前に造られた貴重な板碑です。

榎戸の渡し跡(さんこう渡し跡)

古利根川跡 10時10分。宝性寺を出て、北に150メートルほど進むと、吉川市川藤と越谷市増森の境に出ます。ここは昭和初期までは古利根川が流れていて、古利根川を挟んで、左岸側が、旧葛飾郡 松伏領 川藤村、右岸側が、旧埼玉郡 新方領 増森村に分かれていました。同時に下総国と武蔵国の県境でもありました。

榎戸の渡し跡 古利根川が流れていた当時、ここには、吉川村と増森村を渡す「榎戸の渡し」(えのきどのわたし)または「三公の渡し」(さんこうのわたし)と呼ばれた渡し場があった、という話を案内役の方が教えてくれました。また、榎戸の渡し場から1キロほど上流にも「赤岩渡し」(あかいわわたし)「馬渡し」(うまわたし)と呼ばれた渡し場があったそうです。

せい魚伝説|せいヶ淵

せいヶ淵跡 また、榎戸の渡し場付近は「せいヶ淵」(せいがふち=さいがふち)と呼ばれる深い川底で、せいヶ淵には「せい魚」(せいぎょ)と呼ばれる伝説の巨大な魚が淵の主(ぬし)として住んでいた、という「せい魚伝説」も残っています。「せいヶ淵」の場所は現在の共同工業(越谷市増森2830-15)付近になります。

増森東京

増森東京 また、古利根川沿いにあった増森(ましもり)は、明治から昭和初期にかけて、織物を漂白する晒業(さらしぎょう)が盛んで、最盛期には、増森の晒が次々に東京に運ばれていくことから、増森一帯は「増森東京」(ましもりとうきょう)とも呼ばれていたそうです。その後、晒業は衰退。明治時代は35軒あった晒屋も昭和16年に最後の1軒が廃業してしまいました(案内人の解説による)

 

大日様|石仏

赤い三角屋根の祠 10時30分。続いて大日様と呼ばれている石仏を訪ねました。場所は、榎戸の渡し跡(古利根川跡)から北西50メートルほど先の路傍、越谷市消防団 増森分団 第七部 器材格納庫の横です(越谷市増森1657)。赤い三角屋根が目印。ブロックで造られた祠の中に鎮座しています。祠の隣にあるのは記念碑。

大日様 この石仏が造られたのは江戸前期・寛文3年(1663)。石仏の正面には大日如来座像が彫られていて、右に「文長法師」、左に「寛文三年三月」と刻まれています。かつてこのあたりを流れていた古利根川で、川魚を捕っていた漁の最中に、この石仏が網に引っかかったと伝えられています。また、痰(たん)を切ってくれる痰切りの仏様として信仰されたこともあったようです。

濱子神社

濱子神社 6番目に訪れたのは濱子神社(はまこじんじゃ)。大日様から60メートルほど北にある個人宅の敷地脇(路傍)にあります(越谷市増森)。祠(ほこら)の中に「濱子神社」(はまこじんじゃ)と彫られた石塔が祀られています。もともとは木像でしたが、明治44年(1911)に、現在の石塔に再建されました。地元では「明神様」(みょうじんさま)とも呼ばれて、親しまれてきました。

宝正院

宝正院 10時40分。トイレ休憩を兼ねて立ち寄ったのは宝正院(ほうしょういん)。越谷市増森1680。真言宗豊山派のお寺です。江戸時代は東正寺(とうしょうじ)と呼ばれていましたが、明治44年(1911)に、越谷市増林(ましばやし)の宝蔵院(ほうぞういん)と併合。宝蔵院の「宝」と東正寺の「正」をとって「宝正院」と改めました。

普門品供養塔 参道の東側には普門品供養塔(ふもんぼんくようとう)が建てられています。造立は江戸後期・嘉永7年(1854)。普門品とは、法華経の中にある「観世音菩薩普門品」(かんぜおんぼさつふもんぼん)の略称で、観音経(かんのんきょう)とも呼ばれています。観世音菩薩を供養し、福徳を得るための石碑が普門品供養塔です。

観音堂 本堂の左手にあるのは観音堂。増森村にあった旧・観音寺の観音堂を宝正院に移転して、平成10年(1998)に新しく建て替えたお堂です。武蔵三十三箇所札所巡りの第三十番の観音霊場に当たります。

高地蔵

高地蔵 宝正院の墓地の片隅に大きなお堂が建っています。お堂の中には、高地蔵(たかじぞう)と呼ばれる大きな石仏が安置されています。この場所は、宝正院の旧参道入口でした。

地蔵菩薩立像 高地蔵の造立は江戸中期・宝暦6年(1756)。とても背が高いお地蔵さまなので「高地蔵」と呼ばれるうになったと伝えられています。地元では安産のお地蔵として今でも信仰が続いています。

猿田彦文字庚申塔

猿田彦文字庚申塔 宝正院の山門前の道を南西に 120メートルほど歩いた路傍に「猿田彦大神」(さるたひこおおがみ)と刻まれた文字庚申塔が建っています(越谷市増森)。明治時代の造立。この場所は、以前は酒屋でしたが今は民家になっています。

廿一仏板石塔婆

廿一仏板石塔婆 11時10分。9番目に訪れたのは「廿一仏板石塔婆」(にじゅういちぶついたいしとうば)。越谷市増森1775。旧埼玉郡(さいたまぐん)新方領(にいかたりょう)増森村(ましもりむら)。この板石塔婆は「山王二十一仏板碑」(さんのうにじゅういちぶついたび)とも呼ばれ、造立は、安土桃山時代の天正3年(1575)で、埼玉県の有形文化財(考古資料)にも指定されています。

板碑とは、石造りの卒塔婆(そとば)のことで、板のように薄い形をしているのことから「板碑」(いたび・いたひ)と呼ばれています。板碑は全国でわずか45基しか見つかっていませんが、越谷市では 9基の板碑が見つかっています。中でもこの廿一仏板石塔婆は、完全な形を保っている貴重な板碑です。

山王二十一仏板碑 ふだんはお堂の扉は閉まっていますが、今回、越谷市郷土研究会の史跡めぐりということで、管理されている方が特別に、扉を開けて、中の廿一仏板石塔婆を見せてくださいました。板碑(正面)の上部に、「申待」(さるまち)「供養」(くよう)の文字も刻まれていることから、地元の人々が「庚申待」(こうしんまち)を行なっていたことがうかがえます。庚申待ちとは、庚申(かのえさる)の日に村人が集まって徹夜をする行事のこと。

石仏と庚申塔|薬師堂(慈光庵跡地)

石仏と庚申塔 廿一仏板石塔婆がある場所には、増森の薬師堂(ましもりのやくしどう)と呼ばれた慈光庵(じこうあん)がありました。境内だった敷地内には、さまざまな石仏や庚申塔も見られます。◇道標付き「不動明王」文字塔(嘉永元年=1844年)◇道標付き文字庚申塔(文化12年=1815年)◇道標付き正面金剛像庚申塔(安永3年=1774年)◇聖徳太子像(文化4年=1807年)◇道標付き文字庚申塔(元治元年=1864年)◇文字庚申塔(万治2年=1659年)――など。

続いて最後の見学先の増森神社に向かいます。

武蔵国と下総国の国境|古利根川跡

武蔵国(増森村)と下総国(川藤村)の国境 廿一仏板石塔婆のある薬師堂(慈光庵跡地)から増森神社に向かう途中の道は、かつての古利根川流路でした。上の写真の右手は増森村(武蔵国 埼玉郡 新方領 増森村)、左手は川藤村(下総国 葛飾郡 松伏領 川藤村)。

古利根川は、武蔵国と下総国の国境(くにざかい)でもありました。現在は、この道路(古利根川跡)の右手は越谷市、左手は吉川市になります。正面前方に、リユース(東埼玉資源環境組合)第一工場ごみ処理施設(埼玉県越谷市増林3-2-1)の展望台が見えます。

増森神社

増森神社 11時30分。最後の見学先、増森神社に(ましもりじんじゃ)に到着。越谷市増森1892。創建年代は不詳。旧増森村の鎮守で、元は、水神様(すいじんさま)と呼ばれた水神社(すいじんしゃ)でした。

庚申塔 境内には、江戸後期の文化13年(1816)に造られた「道標付き文字庚申塔」(どうひょうつきもじこうしんとう)があります。石塔の正面に「庚申塔」の文字が彫られ、左側面に「南 吉川道」、右側面に「北 増林道」、裏面に「此方みちなし」と刻まれています。庚申塔の隣にあるのは植樹記念碑。

帰路

帰路 増森神社を出て、解散地点の越谷総合公園バス停(越谷市民球場の裏手)へと向かいます。増森神社から越谷総合公園バス停までの距離は約750メートル。

終着・解散|越谷総合公園バス停

越谷総合公園バス停 11時50分。終着地点の朝日バス・越谷総合公園バス停に到着。越谷市郷土研究会の会長と案内役のあいさつのあと解散。歩いた距離は約4.5キロメートル、歩数は約9,300歩でした。

越谷市郷土研究会主催「第505回 史跡めぐり」資料 越谷市郷土研究会主催「第505回 史跡めぐり」。奥深い解説で、越谷市増森地区と吉川市川藤地区の知られざる歴史に触れることができました。中でもふだんは直接見ることができない山王廿一仏板碑と大泉院跡の石仏を見学できたことは、たいへん勉強になりました。

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NPO法人 越谷市郷土研究会|公式サイト
越谷市郷土研究会は昭和49年(1974年)に設立したNPO法人で、史跡めぐりをはじめ講演会や研究発表会、イベントの開催などの行事を年間を通じて催しています。会員数は350名余。会員になると機関誌も送られてきます。越谷市郷土研究会の詳細につきましては上記ホームページ(公式サイト)をご覧ください。
 

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