幸手市南と中の寺社等を幸手宿観光ガイドの案内で巡った。


 

石仏

石仏 太子堂へ向かう途中、ベルク幸手南店前の信号手前(八百留商店の裏手)にある墓地の塀に沿った路傍に、「馬頭観世音」文字塔、「無縁塔」文字塔、地蔵尊や如意輪観音を主尊にした墓標などのほか、首を切られた正観音像などの石仏が並べられていました。

聖徳太子堂

聖徳太子堂|幸手市南二丁目 10時。5番目の訪問先、聖徳太子堂(通称・太子堂)に到着。住所は幸手市南2-12-38。旧日光街道(県道65号線)沿い。入口に「聖徳太子堂」と刻まれた標石が建っています。
聖徳太子孝養像
聖徳太子孝養像 今回はお堂の中も見せていただけました。太子堂には聖徳太子が祀られていますが、本尊は、聖徳太子孝養像(しょうとくたいしこうようぞう)。少年期の太子の姿です。髪を美豆良(みずら)に結い、袈裟を着け、両手で柄香爐(えごうろ)を持っています。
聖徳太子は大工の神様
ガイドさんの話によると「聖徳太子は法隆寺を建立したことや大工道具の曲尺(かねじゃく)を発明したといわれることから大工や左官など建築に関わる職人さんたちから敬われてきた」そうです。

日光道中・日光御成道合流点

日光道中・日光御成道合流点 太子堂を出て旧日光街道を40メートルほど進むとT字路に出ます。ベルク幸手南店前の信号脇(幸手市南2-1-30地先)。このT字路は、日光道中(日光街道)と、日光御成道(にっこうおなりみち)の合流点。案内板には次のように記されています。
日光道中・日光御成道合流点…日光道中は宇都宮まで奥州街道を兼ね、千住から草加・春日部を通って幸手へと至り、この地点で、日光御成道(にっこうおなりみち)と合流します。川口・鳩ヶ谷・岩槻を抜けて幸手に至る御成道は、徳川三代将軍・家光の時代に整備され、家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行しました。また、地元で羽生道(騎西領道)と呼ばれている道も合流しており、ここを多くの旅人が行き交ったことと思われます~幸手市教育委員会~

移動|日光御成道

さいたま幸手線|幸手市南二丁目 日光道中・日光御成道合流点から、さいたま幸手線(日光御成道)を西南に進みます。左手の田んぼは、稲を刈り終えた切り株から再び稲が生え出た穭田(ひつじだ)になっています。「ひつじ田の案山子もあちらこちら向き」(与謝蕪村)

御成道道しるべ

御成道道しるべ(馬頭観世音供養塔) 琵琶溜井(びわためい)の手前、さいたま幸手線と久喜方面へ続く道がT字路になっている交差点(日光御成道と久喜道の追分)に到着。道の角に、道しるべを兼ねた「馬頭観世音菩薩」文字塔が建っています。ガイドさんが、「この道しるべは、天保14年(1843)4月の徳川12代将軍家慶の日光社参の行程を示した『日光道中絵図』にも描かれています」と解説してくれました。建立は江戸後期・文化14年(1814)。「御成街道道しるべ」の名で、幸手市の史跡にも指定されています。

道しるべ 道しるべの部分、石塔の左面には「右日光 左いわつき 道」、右面には「西 く記 志ようぶ かず 道」と刻まれています。(※)「く記」は久喜、「志ようぶ」は菖蒲、「かず」は加須。ガイドさんの話では「かつてこの追分付近は、雨が降れば水がたまる田圃道(たんほみち)だった」そうです。

琵琶溜井

琵琶溜井 御成道道しるべの50メートルほど北にあるのが琵琶溜井(びわためい)。江戸前期・万治3年(1660)に、関東郡代・伊那忠克(いなただかつ)が、利根川の水を幸手領に導くために古利根川(ふるとねがわ)を整備した分水(ぶんすい)施設で、溜池の形が楽器の琵琶に似ていることからこの名が付きました。
記念公園
琵琶溜井記念公園 ガイドさんの話では「かつては琵琶形のダムと水門があった」とのこと。ここで溜めた水は、圦樋(いりひ)という水門から葛西用水(かさいようすい)中郷用水(なかごうようすい)南側用水(みなみがわようすい)として分水されています。周囲は記念公園として整備されています。

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔 「日光御成道と琵琶溜井」説明板の脇に青面金剛像庚申塔(しょうめんこんごうぞう・こうしんとう)があります。造立は江戸中期・正徳2年(1712)。邪鬼を踏みつけた青面金剛像、その下に三猿が陽刻されています。ガイドさんによる庚申塔と庚申信仰についての詳しい解説がありましたが、内容は割愛。

移動|葛西用水脇

葛西用水|幸手市南二丁目 琵琶溜井をあとに、葛西用水に沿って、次の訪問先・石井酒造へと向かいます。ちなみに葛西用水の対岸は久喜市、こちら側は幸手市です。

石井酒造

10時25分。10番目の訪問先、石井酒造に到着。幸手市南2-6-11。江戸後期・天保11年(1840)創業の蔵元で、代表銘柄には「初緑」「豊明」などがあります。

トイレ休憩|ベルク幸手南店

石井酒造とベルク幸手南店 ここで10分間のトイレ休憩。トイレは石井酒造の隣にあるベルク幸手南店でお借りしました。10時35分、トイレ休憩を終え、次の訪問先、神宮寺へと向かいます。

神宮寺

神宮寺 11番目の訪問先、神宮寺(じんぐうじ)に到着。幸手市南2-3-19。浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来。創建は不詳ですが、「戦国時代の天文年間(1532~1554)の兵火で焼失した。その後、元亀2年(1571)に中興した」ことが、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』(しんぺんむさしふどきこう)に記されていることから、古刹(こさつ)であることは間違いありません。
本堂改築之碑
本堂改築之碑 上の写真は境内にある「本堂改築之碑」。碑文には「神宮寺は、文治(ぶんじ)年間に、鎌倉幕府を開いた源頼朝が創建した」との由緒が記されていることから、神宮寺は源頼朝の開基といわれています。
片男浪仙吉の墓石
片男浪仙吉の墓石 本堂改築之碑の横にある自然石は、江戸時代の相撲年寄・雷権太夫(いかづちごんだゆう)の門弟で、文久3年(1863)になくなった三代目・片男波(かたおなみ)の片男波仙吉(かたおなみせんきち)の墓石です。ガイドさんの話によると、「仙吉は、幸手市出身の力士で、しこ名は角田川仙吉(かくたがわせんきち)といい、七代目・雷権太夫の娘を娶(めと)った」そうです。
頼朝と薬師如来の伝承
源頼朝が、奥州征伐に向かうさいに、秘蔵の鷹が逃げ出し、神宮寺の薬師堂に安置されていた薬師如来に鷹が戻ってくるように祈願したところ、無事に頼朝の元に戻ってきた、との伝承があります。喜んだ頼朝は、七堂伽藍(しちどうがらん)の寺院を建立し、山号を「鷹尾山」、薬師如来に請願したので院号を「請願院」、寺号を「神宮寺」とした、という言い伝えが残っている、ということをガイドさんが教えてくれました。
 
頼朝が請願したとされる薬師堂は現在、神宮寺本堂の東20メートルほどの場所にひっそりと建っています。神宮寺を見学したあと、ガイドさんとともに薬師堂へと向かいました。

薬師堂

|幸手市南二丁目 薬師堂に到着。頼朝が請願したとは思えないほど殺風景。上の写真は道路から撮影したもの。本堂の前に一対の石灯籠があるだけで、境内はがらんとしています。かつては道路から本堂まで参道が続いていたようです。石畳に使われたと思われる石が境内前の空き地に積まれていました。その横には年代不詳の手水石(ちょうずいし)も置かれていました。
「観世音」文字塔
「観世音」文字塔 本堂の横には、江戸後期・天保12年の「観世音」文字塔が置かれていました。側面に「上高野村」、台石には「講中」とありましたので、旧・上高野村(現在の幸手市上高野)の観音講中が建てたものと思われます。
 
次は心鏡院へ

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